edo→tokyoは2015年8月のオープン以来、東京に残る江戸時代の名残を多く紹介してきました。

複数の記事の中から一部を抜粋してご紹介します。

  • 江戸時代の花見-桜の名所と桜餅娯楽が少ない江戸時代。梅やツツジなど四季折々の花を対象に花見が行われました。中でも桜の花見は今と変わらず人気でした。隅田川が桜の名所となったのは江戸時代が起源。現在にも続く桜餅も人気となり、墨堤は大変な賑わいだったようです。
  • 時の鐘と伝馬町牢屋敷-十思公園十思公園に保存されている時の鐘は江戸時代で最初に設置されたといわれる、本石町(室町4丁目、本町4丁目)に設置の鐘楼に取り付けられていたものです。この場所は江戸最古の市街地図として知られる、寛永9年(1632年)、「武州豊嶋郡江戸庄図」に「ろうや」と記されており、古くから牢屋敷として利用されていました。
  • 最後のサムライ-山岡鉄舟と全生庵谷中に全生庵という臨済宗のお寺があります。明治13年(1860年)山岡鉄舟が、明治維新で国のために命を落とした殉難者のために建てた寺で、自身の墓所もそこにあります。慶応4年(1868年)、政府軍の江戸城攻撃が目前に迫った際、旧幕府軍の使者として大総督府(政府軍本部)の西郷隆盛に面会すべく駿府へと向かい、無血開城の一助となりました。
  • 古典落語芝浜の舞台-本芝公園芝浜という有名な古典落語があります。芝浜の舞台、魚の行商を行う亭主が財布を拾う砂浜が港区の芝にありました。現在の本芝公園の辺りが芝浜にあたります。本芝公園内には亭主の仕事場であった雑魚場跡を示す案内板もあり、ここが落語の舞台芝浜であったことが推測できます。
  • 弁慶堀桜の井加藤清正の井戸-外桜田弁慶堀桜の井国会前庭があった場所は江戸時代、彦根藩井伊家の上屋敷があった場所です。前庭内には江戸時代に名水として知られた桜の井が移築して残されています。
  • 江戸名所図会に描かれた待乳山台地の河川浸食の跡-待乳山台東区浅草に、待乳山聖天があります。正しくは待乳山本龍院というお寺で、最近ではパワースポットとしても人気のようです。 その人気は江戸時代も同じだったようで、江戸名所図会、東都名所にも描かれています。先に上げたのは東都名所…
  • 江戸の地名の由来-江戸前島デジタル標高地形図を見ると、今の日本橋から銀座、新橋あたりまで、周囲より標高が高いことがわかります。このあたりは江戸時代、江戸前島と呼ばれる半島でした。江戸前島の周辺、標高地形図で水色になっているあたりは海でした。江戸前島の西側、現在の日比谷公園あたりが当時の日比谷入江です。「江戸」という地名の由来も、この江戸前島、日比谷入江からきているという説があります。入江の戸、つまり海が陸地にいり込んだ場所である「江」に面した場所であるというのがこの説の江戸の由来です。
  • 日本近代化の礎-江川太郎左衛門とジョン万次郎墨田区亀沢に江川太郎左衛門終焉の地の案内板があります。この場所には幕末期において伊豆代官を務めた江川太郎左衛門の江戸屋敷がありました。江戸に召し出され、太郎左衛門の配下となったジョン万次郎もまた、この地に居住しています。
  • 時代とともに姿を変えた-桜の名所御殿山御殿山の名前の由来は、江戸時代、この地に将軍の御殿が設けられたことにあります。御殿は江戸時代初期には鷹狩の際の休息所、茶会等に利用されました。その後桜の名所として知られるようになります。幕末には台場建造のための土取場となり、窪地が今も残されています。
  • 中川船番所跡にかかる番所橋水上交通の関所-中川船番所跡東大島の小名木川と旧中川がクロスする位置に中川船番所跡があります。小名木川は江戸時代に作られた人口の水路です。水運に因り江戸に入る物資、人を取り締まるために、小名木川からの江戸の入り口に当たるこの場所に中川船番所が作られました。
  • 江戸時代の迷子案内板-一石橋と迷子しらせ石標一石橋の南詰に「満よひ子の志るべ」と書かれた石標があります。迷子しらせ石標(迷子石)と呼ばれるもので、江戸時代から現存している迷子石はこれが唯一のものとなります。江戸時代は迷子も多く、迷子を探す人、保護する人双方にとってこの迷子石が役に立っていました。迷子石は明治維新後も増えていきました。
  • 酪農のさと江戸時代酪農の発祥の地-嶺岡牧千葉県南房総市に「酪農のさと」という牧場があります。酪農のさとは日本酪農の発祥の地といわれています。江戸時代白牛酪という乳製品を作り江戸の町に販売されました。
  • 江戸百景鉄砲洲稲荷橋湊神社八丁堀の地名の由来-江戸時代の水路八丁堀八丁堀の地名の由来はまさに、江戸時代に築かれた八丁堀にあります。八丁堀はその長さである八町(約872メートル)に由来します。八丁堀は現在埋め立てられ、ポンプ場や公園になっています。また、八丁堀にかけられた稲荷橋の欄干が歩道に残されています。
  • 四谷怪談の舞台-深川三角屋敷跡江東区深川に四谷怪談の舞台となった三角屋敷がありました。四谷怪談の作者、鶴屋南北は晩年、深川の町に住んでいました。江戸の喧騒から少し離れて、どこか浮世離れした雰囲気のある深川の町を鶴屋南北は魅力的に感じていたのかもしれません。
  • 水道橋の由来-神田上水掛樋水道橋駅から御茶ノ水方面に外堀通りを歩くと、歩道わきに「神田上水掛樋跡」の石碑があります。「樋」は管のこと、「掛樋」は上空をわたすための管をさします。水道橋の地名はまさにこの掛樋に由来します。掛樋は江戸時代に作られた上水道、神田上水の水を江戸市中に通水するための水道管の橋でした。この掛樋が現在の水道橋の地名の由来です。
  • 大伝馬町、小伝馬町の地名の由来-三伝馬町の起こりと宝田神社大伝馬町、小伝馬町の地名の由来は江戸時代に伝馬役を請け負っていた名主がすんでいたことに由来します。江戸城の拡大に伴い、伝馬役が移転した地が大伝馬町、小伝馬町となりました。この地にある宝田神社は移転前の宝田村の名を残しています。
  • 江戸時代の大事故を今に伝える-海福寺慰霊塔目次目黒海福寺の供養塔江戸時代の隅田川架橋永大橋の崩落事故目黒に永代橋の供養塔があるわけ 目黒海福寺の供養塔 目黒不動の通称で知られる瀧泉寺のそばに海福寺というお寺があります。廃寺となった新宿区上落合の泰雲寺という寺から…
  • 馬喰横山駅の駅名由来表示版馬喰町の地名の由来-日本馬と博労馬喰町の地名は天正年間、幕府の馬労頭高木源兵衛、富田半七が居住し、この地にあった馬場を管理していたことに由来します。博労は、馬や牛の仲介人のことです。初めは博労町と記されていましたが、正保年間に現在の馬喰町と改められます。
  • 恵比寿の地名の由来-日本の近代化を支えた三田用水跡恵比寿の地名はエビスビールを作っていた日本麦酒がこの地にあったことに由来します。江戸時代に作られた三田用水の水を利用するためこの地にビール工場が作られました。
  • 海辺の宿場町-東海道品川宿東海道1番目の宿場が品川です。品川宿は江戸からも近く、また海に面した風光明媚な宿場町でしたので大変栄えたといいます。本陣が1つ、脇本陣が2つ、旅籠が93軒が軒を連ねていました。旧東海道である北品川商店街から、台場方面へのわずかな下り坂が海沿いの宿場町であったことの名残です。
  • 江戸時代の輪郭-首都高速2020年夏、1964年東京オリンピック以来、56年ぶり2回目の夏季オリンピックが東京で開催される予定です。オリンピックに向けて、競技場を始め、様々な設備、インフラが整備され東京の街も大きく変わることでしょう。 1964…
  • 築地地名の由来-振袖火事と築地本願寺築地の土地は江戸時代の埋め立てによりできた土地です。地名の由来は「地を築く」、まさに埋め立てそのものを表しています。明暦の大火で焼失した本願寺再建の土地として、八丁堀の海上の土地が与えられます。佃島の信徒を中心に1万2700坪を造成し、そのまま拝領することとなります。築地の地名はまさにこの工事、埋め立てそのものを表します。
  • 丸の内の地名の由来-大名小路からビジネス街への変遷丸の内の地名の由来は、江戸城内(丸の内)にあることに由来します。江戸時代、丸の内は大名屋敷が並び大名小路と呼ばれていました。明治に入り、三菱に払い下げられた大名小路は一丁倫敦と呼ばれるレンガ造りの町並に変わっていきます。
  • 二条城東南隅櫓徳川家の繁栄と衰退を見つめた城-二条城の歴史二条城は家康によって慶長年間に築かれた城です。対朝廷の儀式などに利用され、寛永期にはさらなる改修がなされました。幕末には大政奉還の発表が行われたことで有名です。二条城内には、慶長期、寛永期の普請の名残を見ることができます。
  • 東禅寺山門五箇国条約と攘夷-東禅寺事件東禅寺は、幕末に英国公使館がおかれた寺として知られています。一般市民や下級武士たちの中で、攘夷の気風が高まると、1861年と、1862年に公使館員を襲う東禅寺事件と呼ばれる事件が発生。賠償問題に発展しました。
  • 隼町の地名の由来-家康と鷹狩国立劇場があるあたりを隼町といいます。隼町の町名がつけられたのは明治に入ってのことです。江戸時代、武家地には町名はついておらず、明治に入り、旧武家地に町名がつけられます。隼町もその一つです。 町名の由来は、家康入城の頃、この辺りに鷹狩のタカを飼育、訓練する鷹匠の屋敷があったことに由来します。家康は鷹狩を非常に好んで行ったことが知られています。江戸近郊では葛西など、かなりの回数、日数を割いて鷹狩を楽しんだことが記録に残っています。
  • 東京の街づくりの原点-道三堀跡家康が江戸に入城したころ、初期の普請により作られたのが道三堀です。道三堀は江戸への物資、資材輸送のために開削されました。道三堀によって物資が江戸に集まり、初期の江戸の町を形作っていくことになりました。
  • 源空寺にある伊能忠敬の墓石実測地図の父-伊能忠敬が眠る源空寺台東区上野に源空寺というお寺があります。このお寺には、日本で始めて実測地図を作成したことで知られる、伊能忠敬の墓所があります。伊能忠敬の墓石の隣には、寛政の改暦を行った高橋至時の墓所もあります。幕府の天文方であった高橋至時に師事した関係から、二人の墓所が並んでいます。
  • 雉子橋の名前の由来-江戸時代のもてなしと食日本橋川にかかる橋に、雉子橋があります。朝鮮通信使に供されるキジを囲う鳥小屋がそばにあったため、雉子橋と呼ばれるようになったというのが名前の由来です。キジをはじめ、通信使には朝鮮で好んで食べられていた食材を利用して、大変豪華な饗応料理が準備されました。
  • 御茶ノ水の地名の由来-作られた神田川御茶ノ水の地名の由来はまさに将軍用のお茶に用いるための湧き水があったことにあります。この湧き水は、江戸時代に人工的に作られた神田川の工事により湧き出したものと考えられます。
  • 目黒すずめのお宿緑地公園の竹林江戸のブランド野菜-目黒のタケノコと江戸野菜目黒区碑文谷に「すずめのお宿緑地公園」という公園があります。江戸時代、この近辺には竹林が広がっており、タケノコの生産が行われていました。「目黒のタケノコ」はブランド野菜として江戸の人々に親しまれていました。
  • 忠臣蔵の舞台-赤坂氷川神社赤坂氷川神社が大いに繁栄するのは、8代将軍、吉宗の時代です。現在の氷川神社の場所はその当時、三次藩浅野家上屋敷があった場所でした。三次藩浅野家は、忠臣蔵で有名な、浅野長矩の正室、瑤泉院の実家です。討ち入り後、瑤泉院も実家に戻ります。その後、三次藩浅野家は嗣子に恵まれず、廃藩となり、この上屋敷も引き払いとなり空き地になりました。そこに吉宗の命で氷川神社が遷座することになりました。