江戸時代の上水場-玉川上水御改場跡

江戸時代の上水場-玉川上水御改場跡

新宿区四谷四丁目交差点のそばに玉川上水記念碑があります。江戸時代、ここに玉川上水御改場(水番屋)があったことにちなみます。
水番屋というのは、上水の水質、水量管理の役人のための詰所です。玉川上水は1654年、三代目家光の時代に江戸町人の庄座右門、清左衛門兄弟により開設されます。すでに神田上水が江戸の上水として利用されていたのですが、参勤交代、妻子の江戸在住の制度が始まったこともあり、江戸の人口が増え、生活用水が不足していました。そのため多摩川の羽村を水源とする玉川上水が開設されました。
玉川上水に限らず、江戸時代の上水は自然の川から分水し、土地の高低差を利用して流下させるものでした。そのため天候の影響を受けやすく、給水量にムラが出ます。それを少なくするため、水番屋を設け、給水量の調整を行いました。こうした水番屋は羽村、砂川村、代田村、赤坂溜池、そしてここ四谷大木戸に設けられました。水番屋の番人は給水量の調整の他、上水が汚れるのを防ぐため、見回りなどを行いました。
その後江戸の人口は増え続け、元禄年間(1688年-1704年)には100万人を突破します。しかし、神田上水、玉川上水をはじめとする上水は8代将軍吉宗の時代、1722年に廃止されます。理由については不明ですが、文京区の東京都水道歴史館の資料では、儒学者、室鳩巣の火災防止の建議によるという説が紹介されています。地下を走る上水道が江戸の地脈を分断し、火災を誘発すると考えられたそうです。
上水廃止後、堀井戸の技術が進歩し、井戸水による生活用水の確保が進みます。しかし、かつて海であった関東平野において、生活用水にどうしても適さない井戸もあったようです。それらの地区には水売りの業者が水を販売しました。水売り業者は利用されず、そのまま河川に排水される上水を舟で受け、そのまま運搬し、販売を行いました。