実測地図の父-伊能忠敬が眠る源空寺

実測地図の父-伊能忠敬が眠る源空寺

実測地図の父-伊能忠敬が眠る源空寺

日本地図の父母墓所、源空寺

台東区上野に源空寺というお寺があります。このお寺には、日本で始めて実測地図を作成したことで知られる、伊能忠敬の墓所があります。伊能忠敬の墓石の隣には、寛政の改暦を行った高橋至時の墓所もあります。幕府の天文方であった高橋至時に師事した関係から、二人の墓所が並んでいます。

伊能忠敬に天文学を支持した高橋至時、そして、その教えをもとに実測地図を作成した伊能忠敬。二人の功績をたたえ二人は「日本地図の父母」と呼ばれます(現地案内板による)。

伊能忠敬と高橋至時の出会い

伊能忠敬が高橋至時に師事したのは寛政7年(1795年)の事でした。その時伊能忠敬はなんと51歳。もともとは千葉県佐原で物流業や、米の売買、金融業などを営み大きな財を成していました(高野尚好監修 人物なぞとき日本の歴史)。

50歳で家業を長男の景敬に譲り、隠居の身での弟子入りです。そのころ高橋至時が32歳ですから、実に19歳下の師匠に弟子入りをしたことになります。隠居前の寛政5年(1793年)、伊能忠敬は佐原の村の人々と伊勢参りに出かけます。単なる伊勢参りではなく、方位磁石や望遠鏡を用いての測量の旅を兼ねていました(清水靖夫監修 徹底大研究 日本の歴史人物シリーズ6)。このような天文学への興味が当時天文方として天文学の最先端にあった高橋至時への師事へとつながったと考えられます。

実測に基づいた地図作成への情熱

高橋至時へ師事する寛政7年(1795年)、伊能忠敬は江戸、深川へ居を移します。伊能忠敬の興味は実測に基づいた正確な地図を作成すること、地球の大きさを知ることにありました。高橋至時に天体観測、測量の技術を学ぶと同時に、測量のための器具の収集、作製を行いました。深川の自宅には幕府の天文台にも劣らないほどの計測器具がそろっていたようです(高野尚好監修 人物なぞとき日本の歴史)。

最も、江戸市中では器具を用いた測量は禁止されていたので歩測、つまり自身の歩幅をもとに測量を行いました。しかし、江戸市内の短い距離、しかも歩測での測量では誤差が大きく出ます。このことが伊能忠敬を全国測量への旅へと向かわせることになります。

 10回にわたる実測の旅と実測図の完成

天文方であった高橋至時の働きもあったのでしょう、ついに寛政12年(1800年)幕府より蝦夷地実測の許可が下ります。こうして伊能忠敬の実測の旅は始まります。

閏4月19日朝8時前、深川を出発。・・・・この日、朝より小雨、昼過ぎにやむ、深川八幡宮参詣。それより両国通り、浅草司天台へ立ちより、高橋先生のところでお酒をいただく

(清水靖夫監修 徹底大研究 日本の歴史人物シリーズ6より引用)

上記の日記のとおり、伊能忠敬の自宅近く、深川八幡宮(富岡八幡宮)に参詣し、旅立ちます。

幕府より許可が下りたとはいえ、初期の測量は経費のほとんどを伊能忠敬自身の持ち出しにより賄われています。このことからも相当な意気込みを感じます。

寛政12年(1800年)の測量から文化13年(1816年)まで、伊能忠敬の測量隊は10回もの測量を行っています。その距離およそ4万キロ、地球1周以上の距離を測量しました。伊能忠敬自身も70歳の時に行った8次測量まで旅をともにしています。文化1年(1801年)に師匠である高橋至時が41歳で亡くなります。その死を乗り越えての旅でした。

こうした実測に基づいて作られた最終版伊能図「大日本沿海輿地全図」は伊能忠敬の死後、文政4年(1821年)に完成します。

高橋至時、伊能忠敬、まさに日本地図の父母である二人が並び、源空寺に眠っています。