目黒区碑文谷に「すずめのお宿緑地公園」という公園があります。江戸時代、この近辺には竹林が広がっており、タケノコの生産が行われていました。「目黒のタケノコ」はブランド野菜として江戸の人々に親しまれていました。
すずめのお宿緑地公園と竹林
すずめのお宿緑地公園は広さ7400㎡ほどの広い公園です。きれいに整備された公園内には移築された古民家も残され近隣住民の憩いの場所となっています。
公園内を歩くと、その大半の面積に竹林が広がっていることがわかります。公園内の由来書きには以下のようにあります。
この付近は昭和のはじめまで目黒でも有数の竹林で、良い竹の子がとれました。竹林には無数のすずめが住みつき、朝早くいづこへともなく飛び立ち、夕方には群れをなして帰ってくることから、いつしか人々は、ここを「すずめのお宿」と呼ぶようになりました。
現地案内板より引用
竹林の一部が私有地として昭和の終わりごろまで維持されてきたのでしょう。その後土地の所有者の遺志により国へと寄付され、竹林が公園として残されて今日まで続きました。江戸時代の竹林の様子を今に見ることができる貴重な空間として残されています。
江戸のタケノコ生産の起源
現地案内板にもある通り、すずめのお宿緑地公園がある碑文谷一帯はタケノコの産地として広く知られていました。目黒のタケノコはどのようにして有名になっていったのでしょうか。
日本で食用として一般に食べられているモウソウチクは中国の江南地方が原産といわれています。日本へのどのように伝わったかについては諸説あります。「江南竹記」(1837年)という書物によると、元文元年(1738年)3月、薩摩藩の4代藩主である島津吉貴が、中国から琉球経由で伝わったモウソウチクを鹿児島の御殿に植えたのがその起源としています。
「武江年表」(1849-50年)には、安永8年(1779年)、品川にあった薩摩藩邸前にモウソウチクが植えられ珍重されたということが記載されています。琉球経由で薩摩に伝わり、江戸に運ばれたモウソウチクはその後寛政元年(1789年)、鉄砲洲の回船問屋山路次郎兵衛が鉢植え用として数株入手し、山路の別邸があった戸越村(品川区戸越)で栽培されました。モウソウチクは、その後江戸各所に広まり広くタケノコの生産が行われるようになっていきます。
目黒にも伝わったモウソウチクですが、碑文谷の土が生産に合っていたため、広く栽培が行われ「目黒のタケノコ」として有名になっていきます。
江戸のブランド野菜「江戸野菜」
中国から琉球を経由して薩摩に伝わり、藩邸を経由して江戸の名産となったタケノコですが、同じように江戸に伝わりブランド野菜となっていった「江戸野菜」がいくつか存在していました。三河島菜、亀戸大根、内藤かぼちゃなど実に多くの江戸野菜が各所で作られていました(江戸時代の生産、物流-下り物と下らぬ物)。このように多くの野菜が作られ、江戸野菜として有名になっていくのにはいくつかの条件がそろっていたためです。
まず、1つ目の条件は「江戸に幕府が開かれ、参勤交代制度で地方の武士が多く集まったこと」です。武士は生産者ではなく消費者であるため、江戸は多くの消費者が集まる一大消費地となりました。
2つ目の条件は「江戸近辺に多様な土壌があったこと」です。東は利根川水系が生み出した湿地帯、西側は関東ローム層が作る水はけのよい赤土の台地が広がっていました。水が豊富な湿地帯ではレンコンやネギ、サトイモなどの生産に適しています。関東ローム層では根菜類の栽培が適しており、いろいろな種類の野菜に適した土壌が江戸近郊に広がっていました。
3つ目の条件は「諸藩の藩邸で野菜の生産が行われたこと」です。一大消費地となった江戸では近郊の農家が生産する食料だけでは食料を賄いきれない事態が発生しました。
そこで諸藩では自身の消費分だけでも賄おうと、藩邸内で野菜の栽培が行われるようになります。その中にはタケノコのように国元から持ってこられた野菜もありました。
4つ目の条件は「屋敷に出入りする商人や、農民がいたこと」です。御用商人や、藩邸内での野菜栽培を手伝った農民たちがこうした地方特産の野菜の種子などをもらい受け、自身で栽培、商いを始めるようになります。
こうした条件が重なって、江戸では各所でその土地土地にあった野菜が作られ「江戸野菜」として人気を博していくことになりました。
参考文献
- 青葉高著/日本の野菜文化史事典
- 正井康夫監修/歴史で読み解く!東京の地理
- 山田順子著/江戸グルメ誕生
- 東京歴史研究会編/地下鉄で行く江戸・東京ぶらり歴史散歩
- 別冊歴史REAL/江戸の食大図鑑