文京区小石川に伝通院(傳通院・でんづういん)があります。徳川家康の生母である於大の方(おだいのかた)の菩提寺、徳川家の菩提寺として、徳川将軍家に関連する人物が多く眠っています。
伝通院の起こりと於大の方
伝通院は、正しくは無量山傳通院寿経寺といいます。開山は応永22年(1415年)と古く、了誉上人の開山といわれています。開山した当初は現在の場所とは少し離れたところにある、小さな草庵であったようです。このお寺を無量山寿経寺といいます。
小さな草庵であった寿経寺が伝通院として広く知られるようになったのは、開山から200年ほど後、徳川家康の時代になってからの事です。慶長7年(1602年)、徳川家康の生母、於大の方が京都伏見上で亡くなります。家康は生母の葬式や埋葬について、芝増上寺の存応上人に相談したところ、
「(寿経寺の開山である)了誉上人は、増上寺を開山した聖聰上人の師僧であられます。その了誉上人が住まわれた寿経寺は、今では見る影もなく寂れております。於大の方の菩提寺と為さることこそ至当にございます」
伝通院略誌
と答えました。それを受け家康は寿経寺を再建し於大の方の菩提寺としました。於大の方の法号は伝通院。こうして伝通院は境内10万坪、学寮(僧の修学所)数十棟に1000人の僧が学ぶ大寺院となりました。
於大の方の生涯
於大の方は享禄元年(1528年)、三河刈屋の城主である水野忠政の娘として生まれました。天文10年(1541年)、14歳の頃、松平広忠と結婚し、翌年竹千代が生まれます。後の徳川家康です。
天文13年(1543年)、於大の方は時代の流れに巻き込まれることに。実父である水野忠政が亡くなり、於大の方の兄である信元が家督を継ぎます。信元は今川氏と絶縁して織田氏に従うこととなりました。夫である松平広忠は今川義元の与党。織田氏と今川氏は対立関係にあったため、於大の方を妻に持つ広忠が板挟みの構図となってしまいます。そのため於大の方は離別されたというのが定説となっています。
於大の方が離別された理由については上述以外にも諸説ありますが、いずれにしても戦国時代の外交戦略上の理由です。於大の方17歳、竹千代が2歳~3歳の頃の出来事でした。実家である水野氏に戻った於大の方、後に久松俊勝に嫁ぎ、3男4女をもうけます。
竹千代(家康)はその後今川氏の人質となり、駿府に向かいます。その途中連れ去られ、敵対する織田信秀の人質として尾張で2年間を過ごしています。その間、於大の方は竹千代に着物や食べ物などを折に触れて送ったとされています。
2人の再開は家康の桶狭間従軍の際に実現します。夫久松俊勝の計らいにより実現しました。於大の方32歳、実に15年の月日がたっていました。
大高御出陣の御すがら、久松佐渡守俊勝が阿古居の館に通らせ給ひ、年を経て御母堂に御対面あり、俊勝もはじめて謁見す。君もいはきなき御程にて、御母堂に別れさせ給ひ、ここらの年月をかさねて、再び御親会ありしかば、おぼえず悲喜の御泪にむせび給ふ。
東照宮御実紀所載貞享書上
後に家康が関ヶ原の戦いに勝ち、伏見城で政務を行うようになり、於大の方を上京させるに至ります。於大の方75歳、家康61歳の事でした。その年於大の方は京都でその生涯を終えます。
徳川と豊臣両家の橋渡し、千姫
伝通院には於大の方の他に徳川ゆかりの女性の墓所があります。於大の方同様、時代の波に翻弄された千姫の墓所もその一つ。
千姫は二代将軍徳川秀忠の娘として、慶長2年(1597年)に生まれます。その後慶長8年に徳川、豊臣両家の関係好転のため、豊臣秀頼に嫁入りすることとなりました。秀頼11歳、千姫僅か7歳の頃でした。その後徳川、豊臣の関係は好転することなく、元和元年(1615年)、大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡。千姫は助け出され、徳川家家臣の本多忠刻に嫁ぎます。
寛永3年(1626年)、忠刻の死去に伴い、30歳で出家。天樹院と号しました。寛文6年(1666年)、75歳でこの世を去り、伝通院に眠ります。
家光の正室、孝子の方
三代将軍徳川家光の正室、孝子の方の墓所もこの伝通院にあります。関白左大臣の鷹司信房の娘として生まれ、寛永2年(1625年)、24歳の時に家光の正室となります。しかし、家光との仲は当初からあまりよくなく、子宝にも恵まれませんでした。そのため、大奥には住まず、「御台所」とも呼ばれず、中の丸に御殿を与えらえれ、「中の丸御方」と呼ばれていたとされています。
慶安4年(1651年)、家光が亡くなると、50歳で出家し本理院と号します。延宝2年(1674年)、73歳にてこの世を去ります。
於大の方、千姫、孝子の方。徳川家の側にあり、時代の波に翻弄された3人の女性が伝通院に静かに眠ります。
参考文献
- 伝通院寺務所編/無量山伝通院
- 宇高良哲著/於大の方と伝通院
- 三井知明編著/伝通院略誌