江戸の大寺院-谷中墓地と天王寺、谷中感応寺

江戸の大寺院-谷中墓地と天王寺、谷中感応寺

谷中の大寺院の跡、谷中墓地

日暮里駅のすぐ近くに谷中霊園があります。面積約10万平メートルと広大な墓地は、江戸時代、谷中感応寺の一部でした。感応寺は現在天王寺と名前を変えて谷中の地に残っています。

谷中感応寺の広い境内で行われる富興行は江戸の「三富」の一つに数えられ大変賑わいました。(宝くじの起源-富くじと椙森神社)

感応寺は江戸名所図会にも取り上げられ、以下のように記述されています。

上野谷中門の外にあり。天台宗にして本尊は伝教大師の作の毘沙門天を安置す。当寺始めは日蓮宗にして、宗祖上人を開山とし、日長上人中興ありて、ゆゆしき一宗の寺院たりしが、元禄年中ゆゑありて台宗に改められ、しかりしより後東叡山に属す。

上述の通り、もともとは日蓮宗のお寺、「長耀山感応寺」として開山しましたが、“ゆゑ”あって天台宗に改宗、東叡山上野寛永寺の末寺となりました。

谷中感応寺

江戸名所図会、谷中感応寺

谷中感応寺の改宗と天王寺の起こり

谷中感応寺が天台宗に改宗となった理由は、感応寺が「不受布施派」という宗派であったことにあります。不受布施とは日蓮宗以外の信者からの布施は受けず、施しもしないという考え方の宗派です。幕府は寺社の領地を安堵することにより寺社を統治下に置く仕組みを作りました。一揆による幕府制度の崩壊を防ぐためです。

不受布施の考え方は日蓮宗以外へは施さない、というものですので、幕府の統制がいきわたらない可能性があります。そのため幕府は不受布施派を弾圧します。谷中感応寺も元禄11年(1698年)、天台宗への改宗が命じられ、徳川家の菩提寺の一つである上野寛永寺の末寺となりました。

谷中感応寺が天王寺となるのは100年以上のち、家斉が将軍となったころのことです。家斉には生涯を通して妾が40人いたといわれています。そのうちの一人に日蓮宗下総法華経寺の寺内にある智泉院の住職、日啓の娘、お美代の方でした。

日啓は牛込の仏性寺というお寺にいたころから、奥女中からの信仰を集めており、大奥は日蓮宗が盛んになっていました。そこにお美代の方が大奥入りしたこともあり、日蓮宗がますます大奥内で盛んになったと考えられます。お美代の方が将軍家斉の子を産んだことから、日蓮宗は宗派拡大のチャンスととらえ、谷中感応寺を日蓮宗に帰宗させることを画策しました。

日蓮宗としては江戸に近い祈祷の場所が持てること、また、谷中感応寺で行われていた富興行の収入に魅力があったことから、谷中感応寺を日蓮宗に帰宗させることは魅力でした。大奥女中にしてもそれまでの祈祷の場所が下総から江戸城に近い谷中であれば参詣がしやすいメリットがありました。

そうした背景から谷中感応寺の帰宗が願い出されますが、当の感応寺、寛永寺側が反発。谷中感応寺の帰宗は却下されます。しかし、間を取る形で谷中とは別の場所、雑司ヶ谷の地に日蓮宗の感応寺を開山することを認め、谷中感応寺を護国山天王寺と改称させ、天台宗の寺院のままとしました。こうして現在の天王寺が誕生しました。

谷中感応寺全景

谷中感応寺全景

雑司ヶ谷感応寺の繁栄と衰退

天保7年(1836年)12月、雑司ヶ谷の感応寺が落成。雑司ヶ谷感応寺は多くの信者を集め、特に大奥女中は毎日のように参詣をしたとされています。

雑司ヶ谷感応寺は大奥の後ろ盾を得て、急成長していきます。雑司ヶ谷感応寺が参拝客でにぎわうようになり、家斉の驕奢な生活の象徴のようになっていきました。

大奥女中たちがあまりに頻繁に参拝するため、僧と密通している、長持に隠れて、寄進の「生人形」と称して寺に行き密通を重ねているといったうわさも立つようになります。

天保12年(1840年)、家斉が69歳でこの世を去ります。その後水野忠邦が天保の改革を実施。天保12年10月5日、感応寺は

今般思召これ有り候に付、廃寺仰せ付けられ云々

というあいまいな理由で廃寺が命じられています。同日にはお美代の方の父である日啓も女犯の罪があったとして遠島の処分を受けています。

また、谷中の天王寺でも天保の改革によりこれまで続いていた富興行が禁止。江戸時代の歴史の流れを2つの感応寺が物語っています。

参考文献

  • 豊島区埋蔵文化財調査報告37 旧感応寺Ⅰ
  • 北島正元著/日本の歴史18 幕藩制の苦悶
  • 山本博文著/江戸の雑記帖
  • 安藤優一郎著/大江戸お寺繫昌記
  • 日本博学倶楽部著/大奥のすべてがわかる本
  • 北島正元著/水野忠邦
  • 新訂 江戸名所図会5