大伝馬町、小伝馬町の地名の由来-三伝馬町の起こりと宝田神社

大伝馬町、小伝馬町の地名の由来-三伝馬町の起こりと宝田神社

大伝馬町の地名の由来

中央区に宝田神社、という神社があります。この宝田神社は大伝馬町の地名の由来に深い関係があります。

大伝馬町の地名の由来は江戸時代この地の名主である、馬込勘解由(まごめかげゆ)という人物が伝馬役を請け負っていたことに由来します。伝馬とは家康の五街道整備とともに制度化されたものです。各宿場で一定の人足と馬をそろえ、次の宿まで物資や書状を運び、「宿継」というリレーのような仕組みで運搬を行う制度です。

小伝馬町の地名の由来

隣接する小伝馬町の地名の由来もまた、江戸時代に制度化された、伝馬に由来するものです。大伝馬町に対して、扱う馬の用意が少なかったことから小伝馬町、という名になった、という説があります。

また、大伝馬町が街道での宿継を行うのに対して、小伝馬町は江戸府内での伝馬御用を務めました。

三伝馬町の起こりと宝田神社

伝馬役を務めた町にもう一つ、南伝馬町がありました。大伝馬町、南伝馬町を合わせて両伝馬町といい、上述の宿継を行う、道中筋伝馬御用をつとめました。両伝馬町と小伝馬町を合わせて三伝馬町といい、いずれも伝馬役として苗字帯刀を許されていました。

冒頭の宝田神社と三伝馬町の関係は家康の江戸入城、三伝馬町の起こりにまでさかのぼります。

天正18年(1590年)8月、家康が江戸に入城した際、後の呉服橋門のあたりに寳(宝)田村、後に常盤橋となるあたりに千代田村、という2村がありました。家康はこの2村の佐久間善八・馬込勘解由・吉沢主計・高野新右衛門・小宮善右衛門・宮辺又四郎の5名を伝馬役に命じました。

5名が伝馬役に命ぜられた理由ははっきりとしません。馬込に関しては遠州馬込村の出身で家康に付き添って江戸に出て、家康入城の際に駄馬と人足を率いて出迎えたことを称されたためといわれています。佐久間家については伝馬役に命ぜられたのち馬込姓に改めたという説もあります。

また、高野・小宮・宮辺についてはもともと江戸にいたといわれています。家康入城以前から旧家に従えて、伝馬の役を務めていたためそのまま召し抱えられたのではないかと考えられます。

慶長11年(1606年)、江戸城拡張により、寳田村、千代田村に移転が命ぜられます。佐久間・馬込は大伝馬町に、吉沢・高野・小宮は南伝馬町に、宮辺は小伝馬町にそれぞれ土地を与えられ、傳馬役を務めることとなりました。

宝田神社はまさに宝田村、馬込勘解由の邸宅内にあったものでした。家康から賜った恵比寿神が「宝田神社」として祀られており、移転の際に神社も大伝馬町の地に移り、現在に至ります。

三伝馬町のうち、南伝馬町は昭和6年に京橋一丁目~三丁目に編入され町名としては名前を消しています。

大伝馬町と木綿問屋

大伝馬町は繊維関係の会社が多く集中していることも特徴です。これも大伝馬町の起こりと関係があります。大伝馬町が出来た当初からすでに4軒の木綿問屋があったとされており、これは馬込勘解由が伊勢から木綿商人を連れてきたことが起こりという説があります。

馬込勘解由とともに江戸入りした、尾張、三河、伊勢の商人が郷土の特産品である木綿を扱う問屋を寛永年間に成立させます。海上輸送がまだ発達しておらず、陸上での輸送が主だったころ、木綿は運びやすく商売に適していたと考えられます。その輸送手段として、伝馬が関係していたことが考えられます。

伝馬町に起こった木綿問屋は現代にいたるまで衰退を経て、大伝馬町、小伝馬町の地名とともに現在に続いています。

東京に残された江戸時代に由来する地名

この記事で紹介した以外にも、東京には江戸時代に由来する地名が多く残されています。

その他の地名の由来をみる

参考文献

  • 竹中誠 編/東京の地名由来辞典
  • 竹中誠 編/東京の消えた地名辞典
  • 北島正元 編/江戸商業と伊勢店
  • 内藤昌 著/江戸の町(上)
  • 日本地名大辞典
  • 江戸学事典
  • 日本橋トポグラフィ事典
  • 東京都 東京百年史(1)