江東区の自然

東京都の東南端に位置する江東区。山手台地に対して、東京低地が広がる地帯に位置します。

縄文時代、地球が温暖であったころ、海水面の上昇により江東区一帯は海の底になります。この辺りに流れ込む利根川によって運ばれた砂が海底にたまり、三角州を形づくっていきました。

中世ごろの海岸線は北十間川、亀戸のあたりにあり、この頃の江東区のあたりは広大な干潟が広がっていたと考えられます。川によって運ばれた砂により作られた自然堤防などの微高地が亀戸にあり、河口付近の島のような状態となっていたようです。東京低地でもこうした微高地の上に遺跡などが残っており、古くから人々が生活していたようです。亀戸あたりも中世には集落が存在していて、香取神社は天慶2年(939年)の平将門の乱の頃にはすでにあったといわれています。

江戸時代の江東区

利根川のデルタ地帯に作られた干潟が大きく変化していくのは江戸時代になってからです。干潟の干拓により、深川村、小名木村といった村々が作られていきます。また、利根川の東遷により、東京低地の治水が進み、都市が作りやすくなりました(江戸の礎を築いた伊奈家-利根川東遷と内川廻し)。

江戸の人口は増加の一途をたどり、江東区のあたりまで都市化が進みます。埋め立てはさらに進み現在では海岸線が9キロも南下しています。

しかし、江戸時代、東京低地はやみくもに埋め立てられたのではなく、水運のための輸送路を残して埋め立てられていきました。行徳からの塩を運ぶ小名木川をはじめ、堅川、横十間川など碁盤の目状に水路が作られ、木場に見られる部材や、食品など、江戸の発展を支える輸送、貯蓄拠点として役立ちました。

明治以降、江東区は工業化が進み、地下水の過度な利用による地盤沈下による海抜0m地帯の発生など治水の面での新たな問題が巻き起こりました。

  • 木場の地名の由来-江戸木置場の跡木場公園江東区木場の地名は、この地にあった材木商人の材木置き場(木置場)に由来します。火災が多い江戸で材木を守るため木置場がこの地に移転したことから地名が付きました。隅田川の河口に近い深川木場は木置場として適した場所でした。
  • 深川不動堂門前仲町の地名の由来-深川不動堂と成田山新勝寺門前仲町の地名の由来は、富岡八幡宮の別当寺であった永代寺の門前町として栄えたことにあります。永代寺は廃仏毀釈により無くなりましたが、関係のある深川不動は出開帳や、歌舞伎人気と相まって大きく発展していきました。
  • 堅川堤防江東、深川都市化の跡-竪川堅川は万治2年(1659年)に本所奉行の徳山五兵衛重政と山崎四郎左衛門重政が幕府の名を受け開通されました。竪川の名前の由来ですが、江戸城から見てタテ、つまり放射状に伸びた運河であることからです。竪川は明暦の大火後の再開発で掘削されました。目的としては低湿地帯の排水路の役割が主だったようです。ただ、1660年の天下普請で、神田川に舟運が通じることと時期を同じくするため、小名木川などの補助的な運河の役割も果たしたと思われます。
  • 四谷怪談の舞台-深川三角屋敷跡江東区深川に四谷怪談の舞台となった三角屋敷がありました。四谷怪談の作者、鶴屋南北は晩年、深川の町に住んでいました。江戸の喧騒から少し離れて、どこか浮世離れした雰囲気のある深川の町を鶴屋南北は魅力的に感じていたのかもしれません。
  • 中川船番所跡にかかる番所橋水上交通の関所-中川船番所跡東大島の小名木川と旧中川がクロスする位置に中川船番所跡があります。小名木川は江戸時代に作られた人口の水路です。水運に因り江戸に入る物資、人を取り締まるために、小名木川からの江戸の入り口に当たるこの場所に中川船番所が作られました。
  • 洲崎神社波除碑風光明媚な海辺の神社-洲崎弁天江戸名所図絵に「洲崎弁財天社」という一枚があります。 この洲崎弁財天社は現在も、洲崎神社として残っています。 江戸名所図絵を見ると海辺の神社であることがわかります。 元はこのあたり広大な干潟が広がっており、潮干狩りや、初…
  • 錦糸町の地名の由来-錦糸堀と南割下水錦糸町の地名の由来は江戸時代、この辺りにあった「錦糸堀」にあります。南割下水のことを錦糸堀と呼び、その由来になったという説があります。
  • 江戸時代の塩の道-小名木川江東区、隅田川と荒川の間をほぼ一直線に横切る川が小名木川です。この小名木川は家康により作られた人工の運河です。小名木川は家康入城時、低地であったこの辺りで干潟前面の水路を確定するため、また小名木川以北の干拓地の排水路としての役割を果たしていたようです。もう一つ、大きな役割として江戸の町への物資輸送の水路としての役割がありました。小名木川掘削で特に着目されたのは塩の運搬でした。
  • 萩と龍眼寺秋の七草、萩の名所-龍眼寺江東区の龍眼寺は、別名萩寺と呼ばれています。江戸時代から萩の名所として知られ、多くの人々に愛されていました。萩は万葉集にも詠われ、秋の七草の1つとされています。現在でも秋になると龍眼寺では萩を鑑賞することができます。
  • 猿江の地名の由来-猿江神社と猿江恩賜公園江東区猿江の地名は、この地にある猿江神社に由来します。平安時代の康平年中に、源頼義の家臣であった猿藤太という武将の亡骸がこの地の入江で葬られたことから猿江、という地名が残されています。
  • 平久橋波除碑高潮の脅威を今に伝える-平久橋波除碑江東区平久橋に波除碑という石碑があります。寛政3年(1791年)に発生した高潮によりこの辺りは甚大な被害がありました。そのため幕府は東西520m近くの土地を空地としてさらに被害が発生しないようにしました。その空地の東西に設置されたのが波除碑です。
  • 下町深川発祥の地-深川神明宮江戸に入城し、都市開発を行う家康は適所に人材を起用しました。 家康の旧領である、駿河には江戸のような低湿地、河口の地形がなく、家来たちにはそのような土地を開発する技術がなかったといいます。 そこで目をつけたのは摂州人、つ…
  • 芭蕉庵史跡展望庭園内の芭蕉像「おくのほそ道」への出発点-芭蕉庵跡と千住大橋(1)江東区常盤に芭蕉稲荷があります。芭蕉が1680年から住んだ草庵があった跡地であり、芭蕉の名は、この庵に植えられた芭蕉に由来します。「古池や 蛙飛びこむ 水のをと」の句を詠んだのもこの庵と言われています。また、おくのほそ道の出発点もこの庵でした。
  • 江戸時代の梅の名所−亀戸梅屋舗(うめやしき)歌川広重の江戸名所百景に亀戸梅屋舗があります。伊勢屋彦右衛門の別荘として作られた事が起こりで、300株ほどの梅が植えられていました。広重の絵に書かれている臥竜梅も有名でした。その後明治43年の水害により、梅が枯死したため閉園となってしまいます。向島百花園は佐原鞠塢により1804年に作られ、新梅屋舗と呼ばれ現在に続きます。
  • 江戸野菜、亀戸大根の碑江戸時代の生産、物流-下り物と下らぬ物江戸は武士などの非生産人口が多い一大消費地でした。江戸で消費される生活必需品や、嗜好品は京・大阪から送られてきました。京・大阪から送られた物資は下り物と呼ばれました。呉服、美術品など、文化先進地帯である上方から送られた高品質なものを下り物、と総称され、江戸で作られるものはくだらないものとして、低品質なものという意識があったようです。「くだらない」の語源はここにあるという説があります。