江東区猿江の地名は、この地にある猿江神社に由来します。平安時代の康平年中に、源頼義の家臣であった猿藤太という武将の亡骸がこの地の入江で葬られたことから猿江、という地名が残されています。
猿江神社と猿江の地名
江東区猿江に猿江神社という神社があります。社殿は昭和6年に再建された鉄筋コンクリート造で、都内でも最古級の鉄筋コンクリート造りの建物とされています。
創立年代は不明ですが、社名の由来は前述の通り、源頼義、頼家による奥州遠征の頃なくなった猿藤太という家臣に由来します。
康平年中(1058年~1065年)に武士の亡骸がこの地にあった入江にたどり着きます。毎夜光を放つので村人が亡骸を確かめると、兜に「猿藤太」と記されていました。亡骸を稲荷の裏手に祀ったことから猿藤太の「猿」入江の「江」の字を取り猿江稲荷となったとされています。そして猿江稲荷があるこの地に猿江という地名が残りました。
猿江と江戸時代
江戸時代に入ると、猿江の地には幕府の貯木場が作られます。寛永18年(1641年)の大火を契機として、現在の茅場町など江戸市中にあった材木町が隅田川東岸の佐賀町といった土地に移されることになります。
「猿江」の地名が示す通り、もともとこの辺りは海でした。埋め立てが進んだのちも海水と淡水が混じるこの辺りは材木の保管に適していました。横網にあった幕府の材木場も猿江に移転となり、猿江にも享保18年(1733年)材木場が作られることとなります。その後猿江にほど近い深川築地町にも材木場が作られ、現在も木場という地名を残しています。
猿江の材木場はその後明治に入ると、新政府に引き継がれ、皇室の御用材の貯木場として使われることとなります。
大正13年になると東京市に払い下げとなり、昭和7年、現在にも続く猿江恩賜公園として開園しました。
戦後も材木場の一部を残していましたが、地盤沈下などの影響で、徐々に使いづらいものとなっていきます。昭和51年、木場にあった材木場と時を同じくして新木場へと移転。材木場としての役割を終えます。
園内には現在もミニ木蔵として水面が残されており、猿江の地名とともにその記憶を残しています。
東京に残された江戸時代に由来する地名
この記事で紹介した以外にも、東京には江戸時代に由来する地名が多く残されています。
参考文献
- 東京木材問屋協同組合/江戸東京木材史
- 江東区史(上)
- 平凡社/東京都の地名