現存の石造アーチ橋-常磐橋と常磐橋門跡

現存の石造アーチ橋-常磐橋と常磐橋門跡

2021年5月、日本銀行そばの常磐橋が修復工事を終え、通行可能となりました。明治10年に架けられた石造のアーチ橋で、史跡として保存されていましたが、東日本大震災の被害などもあり、2011年から長い修復工事が行われていました。

江戸六口の1つ、常磐橋門

常磐橋は江戸城に作られた城門(見附)にかかる橋です。近くには常磐橋公園もあり、桝形の見附の跡が残されています。

見附跡の石垣。常磐橋改架にも取り壊された見附の石垣が使われた

石造の常磐橋の近くには別に新常盤橋、常盤橋という2つの橋があります。新常盤橋は昭和4年、常盤橋は大正15年に作られた橋で、どちらも車が通行できる大きな橋です。石造の常磐橋は歩行者専用の橋として今に残っています。常磐橋の「磐」の字が「盤」でない理由は「皿」は割れやすく、橋として縁起が良くないため、「磐」の字が使われたとされています。

常磐橋欄干。常”磐”橋となっている

常磐橋がかかる常磐橋門ですが、家康の慶長年間の江戸城修築当時から開かれた門とされています。当時は浅草方面への出入り口であったことから浅草口、また、大手門に通じる門であったことから大手口と呼ばれていました。

浅草口(常磐橋門)は、この頃に江戸城設けられた門である「芝崎口(のちの神田橋門)」「上州口(のちの田安門)」「國府方口(のちの半蔵門)」「小田原口(のちの桜田門)」「舟口(海港)」と並び、江戸六口と称されていました。

常磐橋は当時、江戸にかかる最大の橋梁であったことから「大橋」と呼ばれていましたが、金葉集に収録された古い歌

色かへぬ 松によそへて東路の

 常磐の橋にかゝる藤なみ(橋上藤 大夫典侍)

江戸城史

からその名を常磐橋としたと伝えられています。

明治以降の常磐橋

明治元年、常磐橋の桝形門は破却となります。しかし、明治10年、常磐橋は石造のアーチ橋として改架されました。

常磐橋が架けられた明治初年、江戸幕府から東征軍(新政府軍)に代わり統治された江戸の町では、当初の混乱は落ち着いてきたものの、反新政府的な感情が市民の間には漂っていました。そんな中でも常磐橋改架の他、鍛冶橋の石橋完成、川汽船の運行開始など、ハード、ソフトの両面から近代化が進められていました。

そのような状況下で、西南戦争が勃発。新旧の体制の衝突がうねりの様に東京の町を包んでいたのではないかと考えられます。

翌明治11年5月14日、維新の三傑の1人、大久保利通が凶刃によって倒れます。殺害に関与したとされる島田一郎らは、その理由として、明治政府の失政五カ条をあげています。

「不急ノ土工ヲ興シ無用ノ修飾ヲ事トシ以テ國財ヲ徒費」

当時の東京の人々にどう映ったのかはわかりませんが、常磐橋は現在まで大切に保管され、江戸、明治の名残を今に伝えています。

改修工事中の常磐橋。完全に解体しアーチを組み直した

参考文献

  • 東京百年史 第二巻
  • 日本橋トポグラフィ事典編集委員会編/日本橋トポグラフィティ事典
  • 鈴木謙一著/江戸城三十六見附を歩く
  • 伴三千雄著/江戸城史
  • 伴東孝著/東京の橋