四谷怪談の登場人物、お袖が暮らした三角屋敷
江東区深川に、深川えんま堂として有名な法乗院があります。そのそば、亀堀公園の南に三角形の形をした緑地帯があります。
寛永2年(1849年)に出された、江戸切絵図、深川絵図を見ると、この地が三角屋敷、として記されていることがあ分かります。この緑地帯のあたりにあった三角屋敷は江戸時代、四世鶴屋南北が作った歌舞伎「東海道四谷怪談」の登場人物、お袖が暮らした三角屋敷の舞台とされています。
四谷怪談と深川三角屋敷
東海道四谷怪談は四世鶴屋南北の人気の演目として知られています。自分の父親の仇であるとも知らず、一度は離縁した伊右衛門と暮らすお岩。伊右衛門に裏切られ無残な姿となり恨みを持ちながら死んでいくお岩が主人公のように描かれていますが、お岩の妹、お袖もまた、四谷怪談の重要な登場人物の1人です。
お袖も、自身のいいなづけであった与茂七を殺され、その仇討のため、自身に思いを寄せる直助と仮の夫婦として暮らします。二人が住んでいたのが深川の三角屋敷です。
お袖はこの三角屋敷で洗濯屋などを営みながら暮らします。ある時、戸板にくくりつけられた女性の水死体が来ていた着物が洗いに持ち込まれます。この着物が、姉であるお岩が着ていたものとうり二つ。さらには姉お岩が母の形見として持っていた櫛までもがお袖の前に出てきます。その後、姉お岩がなくなったことを知り、さらには死んだと思っていたいいなづけの与茂七まで現れ・・・。
(法乗院深川えんま堂)
四谷怪談は文政8年(1825年)、中村座で初演となりました。初演の際は忠臣蔵とセットで2日がかりで上演されました。初日は忠臣蔵の第一段から六段目、その後四谷怪談の序幕、二幕、三幕が上演されます。そして2日目に忠臣蔵の七段から十段目を演じ、その後、四谷怪談の四、五幕、そして最後に忠臣蔵の十一段目を演じるという流れです。
そのため、四谷怪談は忠臣蔵の裏の部分をえがいており、登場人物は赤穂の塩谷家浪人の伊右衛門や、ゆかりのあるお岩、お袖など浪人の苦しい暮らしの中で起こる物語をえがいています。
赤穂の塩谷家の浪人であった伊右衛門が敵対する高野家に接近することからお岩の恨みが起こり、複雑な筋が生まれていきます。
当時の深川と三角屋敷
お袖もまた、塩谷家浪人と縁がある人物です。父は塩谷家の浪人であり、いいなづけは御家復興のために奔走しており、貧しい生活を余儀なくされます。そのため、私娼婦や洗物屋として生計を立てていました。
鶴屋南北はそんなお袖を作品の中で深川の三角屋敷に住まわせます。鶴屋南北自身も晩年に深川に住んでいます。文政年間に深川に転居したとされており、文政8年(1825年)の四谷怪談に描かれている深川は鶴屋南北がみた深川の様子だったといえます。
当時の深川には岡場所(幕府公認の吉原以外の色町)が複数あり、辰巳芸者と呼ばれる芸者たちがいました。その一方で隅田川を隔てているため、江戸市中からの便がいいわけではなく、街のはずれにはゴミの埋立地や火葬場が広がっていました。
四谷怪談でも描かれている、深川隠亡堀でお岩と小平の遺体が引き上げられるというシーンも、深川隠亡堀で鰻掻きが水死体を発見したという事件をもとに書かれています。
また、この辺りには肴商などの俸手振や、提灯張り、髪結いといった小さな商いを営む人々が多く住んでいました。こうした人々は自身の家を持たない、店借(たながり)層の人々で、深川に住むおよそ8割もの人々が店借層でした。
鶴屋南北はそうした江戸の賑わいから少し離れた、しかも地割のすみの三角屋敷に自身の作品の登場人物を住まわせたています。門前町として栄えつつありながらも江戸の喧騒から少し離れて、どこか浮世離れした雰囲気のある深川の町を鶴屋南北は魅力的に感じていたのかもしれません。
参考文献
- 津川安男著/江戸のヒットメーカー-歌舞伎作者・鶴屋南北の足跡
- 塩見鮮一郎著/四谷怪談地誌
- 廣末保著/四谷怪談
- 洋泉社編集部編/江戸と歌舞伎
- 諏訪春雄著/鶴屋南北
- 江東区史上巻
- 松井今朝子文/まんが歌舞伎入門