edo→tokyoは2015年8月のオープン以来、東京に残る江戸時代の名残を多く紹介してきました。

複数の記事の中から一部を抜粋してご紹介します。

  • 芭蕉庵史跡展望庭園内の芭蕉像「おくのほそ道」への出発点-芭蕉庵跡と千住大橋(1)江東区常盤に芭蕉稲荷があります。芭蕉が1680年から住んだ草庵があった跡地であり、芭蕉の名は、この庵に植えられた芭蕉に由来します。「古池や 蛙飛びこむ 水のをと」の句を詠んだのもこの庵と言われています。また、おくのほそ道の出発点もこの庵でした。
  • 九代目市川團十郎の大口屋曉雨(札差)蔵前の地名の由来-御米蔵と札差台東区に蔵前という地名があります。江戸時代の幕府の御米蔵がその地名の由来となっており、蔵前にあった御米蔵は1620年、和田倉あたりにあった御米蔵を移転して作られたものです。米蔵から武士の給料として払い出される米の受け取りを代行したのが札差です。札差たちは金融業にも手を広げ、江戸の粋を代表する存在となっていきます。
  • 江戸時代の水運の後-六間堀江戸に入城した家康は、土地の確保のため、低湿地の埋め立てを進…
  • 両国の相撲起源の地-回向院回向院は勧進相撲の定場所としても有名です。勧進相撲とは寺社建立の資金となる浄財を集めるために行われた相撲のことです。江戸時代初期にはそのような形での興行しか許可されていませんでした。回向院をはじめ、いろいろな寺社で勧進相撲が行われていましたが、天保4年(1833年)、回向院が定場所となり、回向院で行うことが定例となりました。この回向院の定場所が今に続く、両国国技館の前身です。
  • 江戸時代の水道管が残る-本郷給水所公苑文京区本郷に本郷給水所公苑があります。 この公苑内に神田上水…
  • 源空寺にある伊能忠敬の墓石実測地図の父-伊能忠敬が眠る源空寺台東区上野に源空寺というお寺があります。このお寺には、日本で始めて実測地図を作成したことで知られる、伊能忠敬の墓所があります。伊能忠敬の墓石の隣には、寛政の改暦を行った高橋至時の墓所もあります。幕府の天文方であった高橋至時に師事した関係から、二人の墓所が並んでいます。
  • 江戸野菜、亀戸大根の碑江戸時代の生産、物流-下り物と下らぬ物江戸は武士などの非生産人口が多い一大消費地でした。江戸で消費される生活必需品や、嗜好品は京・大阪から送られてきました。京・大阪から送られた物資は下り物と呼ばれました。呉服、美術品など、文化先進地帯である上方から送られた高品質なものを下り物、と総称され、江戸で作られるものはくだらないものとして、低品質なものという意識があったようです。「くだらない」の語源はここにあるという説があります。
  • 江戸時代の大事故を今に伝える-海福寺慰霊塔目次目黒海福寺の供養塔江戸時代の隅田川架橋永大橋の崩落事故目…
  • 砂州の先端に祀られた-利田神社品川区、旧東海道を天王洲方面に少し下ったあたりに利田神社があ…
  • 銀座を横断する運河-道三堀跡千代田区新大手町ビルヂング脇の道に案内板があります。案内板は…
  • 日比谷の地名の由来-海の痕跡が残る日比谷公園日比谷の地名の由来は諸説あります。漁民が海苔をとり、魚をとらえるために海の中に立てる竹の小枝を「ひび」といいます。家康の入城のころ、このあたりは入り江が入り込んでいました。「ひび」がたつ入江(谷)であったことから日比谷という地名に転じた、というものがそれです。
  • 大伝馬町、小伝馬町の地名の由来-三伝馬町の起こりと宝田神社大伝馬町、小伝馬町の地名の由来は江戸時代に伝馬役を請け負っていた名主がすんでいたことに由来します。江戸城の拡大に伴い、伝馬役が移転した地が大伝馬町、小伝馬町となりました。この地にある宝田神社は移転前の宝田村の名を残しています。
  • 築地地名の由来-振袖火事と築地本願寺築地の土地は江戸時代の埋め立てによりできた土地です。地名の由来は「地を築く」、まさに埋め立てそのものを表しています。明暦の大火で焼失した本願寺再建の土地として、八丁堀の海上の土地が与えられます。佃島の信徒を中心に1万2700坪を造成し、そのまま拝領することとなります。築地の地名はまさにこの工事、埋め立てそのものを表します。
  • 百人町の地名の由来-御家人の暮らし目次鉄砲百人組がいた町、百人町下級武士の暮らし 鉄砲百人組が…
  • 佃の地名の由来-漁師のための人工島、佃島佃と呼ばれるこの辺りは、江戸時代佃島という人工の小島でした。佃の地名の由来は、寛永年間に摂津国西成郡佃村の漁民たちを招いて、隅田川河口の干潟を埋め立て小島に住まわせたことにあります。今も残る佃煮もこの佃島が発祥という説があります。
  • 按針通りの名前の由来-三浦按針と家康按針通りの名前は、江戸時代初期、この地に屋敷を与えられていた、三浦按針(ウィリアムアダムス)に由来します。ウィリアムアダムスは家康の信頼を受け、外交顧問として幕府に迎え入れられ、日本で生涯を終えました。
  • アシの原に作られた歓楽街-元吉原上記にあげたのは人形町付近の標高図です。 (国土地理院 レー…
  • 五角形に見る台場跡-台場小品川区に台場小学校という小学校があります。 この小学校周辺を…
  • 秋葉山常夜灯秋葉原の地名の由来–秋葉講と秋葉神社江戸時代、代表者が参拝の旅に出る「代参講」という仕組みがありました。秋葉山に参拝する為の集団を秋葉講と呼びます。秋葉原地名の由来も秋葉山に関係します。江戸時代火除地として空き地になっていたこの地にあった、火防の社を、江戸の人々は火防信仰で有名な秋葉大権現が祀られていると勘違い。秋葉大権現の原っぱ、「秋葉っ原」とよんだことが定着して、地名の由来となりました。
  • 雉子橋の名前の由来-江戸時代のもてなしと食日本橋川にかかる橋に、雉子橋があります。朝鮮通信使に供されるキジを囲う鳥小屋がそばにあったため、雉子橋と呼ばれるようになったというのが名前の由来です。キジをはじめ、通信使には朝鮮で好んで食べられていた食材を利用して、大変豪華な饗応料理が準備されました。
  • 近藤勇の墓所-板橋駅前供養塔板橋駅東口を出てすぐの場所に近藤勇の供養塔があります。近藤勇の墓地は各所に存在しているのですが、ここ板橋駅前の供養塔には胴体が埋葬されていると伝えられています。近藤勇は板橋宿手前、平尾一里塚付近で処刑されます。終焉の地に近いこの場所に新選組隊士の1人であった永倉新八が発起人となり、明治9年(1876年)、供養塔が作られました。
  • 日本近代化の礎-江川太郎左衛門とジョン万次郎墨田区亀沢に江川太郎左衛門終焉の地の案内板があります。この場所には幕末期において伊豆代官を務めた江川太郎左衛門の江戸屋敷がありました。江戸に召し出され、太郎左衛門の配下となったジョン万次郎もまた、この地に居住しています。
  • 赤穂浪士の忠義は今も-吉良邸跡回向院のそばに本所松坂町公園という小さな公園があります。 こ…
  • 最後のサムライ-山岡鉄舟と全生庵目次山岡鉄舟の墓所、全生庵山岡鉄舟の健脚を作った幼少時代無私…
  • 二条城東南隅櫓徳川家の繁栄と衰退を見つめた城-二条城の歴史二条城は家康によって慶長年間に築かれた城です。対朝廷の儀式などに利用され、寛永期にはさらなる改修がなされました。幕末には大政奉還の発表が行われたことで有名です。二条城内には、慶長期、寛永期の普請の名残を見ることができます。
  • 横網(よこあみ)の地名の由来-浅草海苔と隅田川横網(よこあみ)という地名の由来は、漁師が横に網を干していたため、という説があります。江戸時代初め、隅田川では海苔が取れ、河岸には海苔干が見られました。隅田川でとれた海苔は浅草海苔として江戸の名産として知られていました。
  • 新宿の地名の由来-内藤新宿追分甲州街道に作られた宿場町、内藤新宿が現在の新宿の地名の由来です。もともと、甲州街道の最初の宿場は高井戸宿でした。しかし、日本橋から高井戸宿までの距離は四里、16キロほどありました。そのため日本橋から二里のこの辺りに内藤新宿という宿場が作られます。
  • 時の鐘と伝馬町牢屋敷-十思公園十思公園に保存されている時の鐘は江戸時代で最初に設置されたといわれる、本石町(室町4丁目、本町4丁目)に設置の鐘楼に取り付けられていたものです。この場所は江戸最古の市街地図として知られる、寛永9年(1632年)、「武州豊嶋郡江戸庄図」に「ろうや」と記されており、古くから牢屋敷として利用されていました。
  • 海辺の宿場町-東海道品川宿東海道1番目の宿場が品川です。江戸時代、日本橋を出発し、京都方面に向かう旅人は、戸塚、保土ヶ谷宿あたりまで一日で歩いたといいます。品川宿が単に通過点にすぎなかったかというとそうではありません。江戸からも近く、また海に面した風光明媚な宿場町でしたので大変栄えたといいます。本陣が1つ、脇本陣が2つ、旅籠が93軒が軒を連ねていました。旧東海道である北品川商店街から、台場方面を望むと、わずかに下り坂になっていることがわかります。この道が、海沿いの宿場町であったことの名残です。
  • 江戸発展を見る二つの倉-和田倉、蔵前東京には「蔵」のつく地名がいくつかあります。浅草近くの「蔵前…
  • 神田川と柳神田川沿いに造られた土塁-柳原土手神田川沿いには江戸時代、柳原土手という土手がありました。名前の由来は太田道灌の時代に鬼門を守るために柳を植えたとも、吉宗の時代に柳を植えさせたともいわれています。柳原土手は江戸城外郭の土塁としての意味合いや、神田川沿いの堤防としての意味合いがあったと考えられます。現在は取り壊され、柳原通りという通り名が残っています。
  • 赤坂の地名の由来-関東ローム層の赤土と坂赤坂の地名の由来は諸説あります。赤根山に登る坂「赤坂」からついたという説、赤土の坂「赤坂」からついたという説です。どちらも赤坂という坂の名前からついたということは共通しています。赤坂という名称の坂は現在残っていませんが、紀伊国坂のかつての名称が赤坂であったといわれています。関東ローム層の赤土でおおわれる東京には、赤坂の他にも「赤」がついた地名が多く残ります。