edo→tokyoは2015年8月のオープン以来、東京に残る江戸時代の名残を多く紹介してきました。

複数の記事の中から一部を抜粋してご紹介します。

  • 赤穂浪士討ち入りの舞台-吉良邸跡両国の回向院の側に本所松坂町公園という公園があります。ここは赤穂事件で有名な吉良上野介の上屋敷があった場所です。四十七士の討ち入りはまさにこの場所で行われました。8400㎡という広大な敷地でしたが、現在は屋敷の北側の一角が公園として残されています。
  • 鷹狩の鷹場跡-仲台院と加納甚内目次加納甚内が眠る仲台院江戸近郊に指定された鷹場綱差役、加納甚内鳥見役による鷹場の支配 加納甚内が眠る仲台院 江戸川区に仲台院という浄土宗のお寺があります。現地案内版では、應誉良道上人が天文8年(1539年)に阿弥陀如来…
  • 江戸時代の鮨の屋台握りずし発祥の地-鮨の発展と江戸前鮨握りずしを考案したとされる与兵衛鮨が両国にありました。鮨はもともと保存食として作られていましたが、江戸湾の自然や江戸の文化を反映し、やがて握りずしの形へと姿を変えていきました。
  • 江戸発展を見る二つの倉-和田倉、蔵前東京には「蔵」のつく地名がいくつかあります。浅草近くの「蔵前」。その名の通り、江戸時代、この地に米蔵があったことに由来します。幕末の1858年に出版された「安政改正御江戸大絵図」を見ると、蔵前のあたりに八本の舟入堀がある…
  • 深川不動堂門前仲町の地名の由来-深川不動堂と成田山新勝寺門前仲町の地名の由来は、富岡八幡宮の別当寺であった永代寺の門前町として栄えたことにあります。永代寺は廃仏毀釈により無くなりましたが、関係のある深川不動は出開帳や、歌舞伎人気と相まって大きく発展していきました。
  • 新島襄生誕の地-安中藩上屋敷跡千代田区学士会館のあたりに、安中藩上屋敷がありました。この地は安中藩士であった新島襄生誕の地でもあります。新島襄は江戸で洋学を中心に学び、函館から密航。米国へと渡ります。10年間の渡米を経て日本に帰国。キリスト教を元にした私塾を開きました。
  • 新宿の地名の由来-内藤新宿追分甲州街道に作られた宿場町、内藤新宿が現在の新宿の地名の由来です。もともと、甲州街道の最初の宿場は高井戸宿でした。しかし、日本橋から高井戸宿までの距離は四里、16キロほどありました。そのため日本橋から二里のこの辺りに内藤新宿という宿場が作られます。
  • 横網(よこあみ)の地名の由来-浅草海苔と隅田川横網(よこあみ)という地名の由来は、漁師が横に網を干していたため、という説があります。江戸時代初め、隅田川では海苔が取れ、河岸には海苔干が見られました。隅田川でとれた海苔は浅草海苔として江戸の名産として知られていました。
  • 浅草吉原への通い道-山谷堀待乳山のふもとから、吉原大門まで続く水路に山谷堀がありました。現在は山谷堀公園としてその形をとどめています。山谷堀を猪牙船と呼ばれる船で上がり、吉原へと向かう「山谷通い」は贅沢な遊びでした。この猪牙船は吉原通いにも利用されたため、別名を山谷船といいます。
  • 日本橋揮毫日本橋の由来-江戸時代から現在の日本橋日本橋の名前の由来は諸説あります。江戸時代に作られた時から各街道の中心であり、各国への行程がここから始まることや、日本国内中の人足が集まってかけられたことなど、日本の中心であることをうかがわせます。慶長8年に架橋された日本橋は火災などの焼失による架け替えを経て、明治44年に架けられた20代目が東京の象徴としてあり続けています。
  • 江戸時代の卸売市場-日本橋魚河岸日本橋の北詰に日本橋魚河岸跡の案内板があります。摂津の佃村から江戸に来た森孫右衛門の一族が、献上した白魚の残りを販売したことが日本橋魚河岸の起こりです。日本橋魚河岸は魚市場として発展をし、幕末をむかえます。明治になってからも日本橋は魚市場として機能し続けますが、関東大震災がきっかけとなり、築地に移転をすることとなります。
  • 江戸時代の大事故を今に伝える-海福寺慰霊塔目次目黒海福寺の供養塔江戸時代の隅田川架橋永大橋の崩落事故目黒に永代橋の供養塔があるわけ 目黒海福寺の供養塔 目黒不動の通称で知られる瀧泉寺のそばに海福寺というお寺があります。廃寺となった新宿区上落合の泰雲寺という寺から…
  • 弁慶堀桜の井加藤清正の井戸-外桜田弁慶堀桜の井国会前庭があった場所は江戸時代、彦根藩井伊家の上屋敷があった場所です。前庭内には江戸時代に名水として知られた桜の井が移築して残されています。
  • 中川船番所跡にかかる番所橋水上交通の関所-中川船番所跡東大島の小名木川と旧中川がクロスする位置に中川船番所跡があります。小名木川は江戸時代に作られた人口の水路です。水運に因り江戸に入る物資、人を取り締まるために、小名木川からの江戸の入り口に当たるこの場所に中川船番所が作られました。
  • 半蔵門の名前の由来-服部半蔵と伊賀同心地下鉄の路線名でもその名が知られる半蔵門ですが、この服部半蔵率いる伊賀同心組が警護を行ったことがその名の由来とされています。半蔵門は江戸城における有事の際の逃亡のための門とされています。半蔵門から城を脱出し、甲府へと向かう甲州街道を通り、甲府城へ逃れる手はずとなっていたといわれています。そのため、甲州街道沿いは警備強化のため、百人同心などを住まわせています。
  • 四谷怪談の舞台-深川三角屋敷跡江東区深川に四谷怪談の舞台となった三角屋敷がありました。四谷怪談の作者、鶴屋南北は晩年、深川の町に住んでいました。江戸の喧騒から少し離れて、どこか浮世離れした雰囲気のある深川の町を鶴屋南北は魅力的に感じていたのかもしれません。
  • 日比谷の地名の由来-海の痕跡が残る日比谷公園日比谷の地名の由来は諸説あります。漁民が海苔をとり、魚をとらえるために海の中に立てる竹の小枝を「ひび」といいます。家康の入城のころ、このあたりは入り江が入り込んでいました。「ひび」がたつ入江(谷)であったことから日比谷という地名に転じた、というものがそれです。
  • 神田川と柳神田川沿いに造られた土塁-柳原土手神田川沿いには江戸時代、柳原土手という土手がありました。名前の由来は太田道灌の時代に鬼門を守るために柳を植えたとも、吉宗の時代に柳を植えさせたともいわれています。柳原土手は江戸城外郭の土塁としての意味合いや、神田川沿いの堤防としての意味合いがあったと考えられます。現在は取り壊され、柳原通りという通り名が残っています。
  • 洲崎神社波除碑風光明媚な海辺の神社-洲崎弁天江戸名所図絵に「洲崎弁財天社」という一枚があります。 この洲崎弁財天社は現在も、洲崎神社として残っています。 江戸名所図絵を見ると海辺の神社であることがわかります。 元はこのあたり広大な干潟が広がっており、潮干狩りや、初…
  • 関口、水道の地名の由来-江戸初期の名残神田上水跡文京区に「関口」という地名があります。江戸初期に造られた小石川上水へ水を引き入れるため、神田川に造られた堰に由来するという説があります。小石川上水は江戸の町の発展とともに連続的に整備され、神田上水と呼ばれるようになります。
  • 江戸百景鉄砲洲稲荷橋湊神社八丁堀の地名の由来-江戸時代の水路八丁堀八丁堀の地名の由来はまさに、江戸時代に築かれた八丁堀にあります。八丁堀はその長さである八町(約872メートル)に由来します。八丁堀は現在埋め立てられ、ポンプ場や公園になっています。また、八丁堀にかけられた稲荷橋の欄干が歩道に残されています。
  • 両国の相撲起源の地-回向院回向院は勧進相撲の定場所としても有名です。勧進相撲とは寺社建立の資金となる浄財を集めるために行われた相撲のことです。江戸時代初期にはそのような形での興行しか許可されていませんでした。回向院をはじめ、いろいろな寺社で勧進相撲が行われていましたが、天保4年(1833年)、回向院が定場所となり、回向院で行うことが定例となりました。この回向院の定場所が今に続く、両国国技館の前身です。
  • 芝大神宮の狛犬江戸の名所芝神明宮-だらだら祭りとめ組の喧嘩だらだら祭りなどで知られる芝神明宮はめ組の喧嘩の舞台となった場所です。勧進相撲を木戸銭を払わずに見物しようとした火消の辰五郎と力士の九竜山の喧嘩が大きな騒動に発展しました。当時の火消しは鳶が担っており、職能を生かした破壊消火が行われていました。
  • 有楽町の地名の由来-織田有楽斎と茶有楽町、という地名の由来には諸説ありますが、織田信長の弟、織田長益の号「有楽斎」にあるというものがあります。慶長年間に織田有楽斎の屋敷があり、その後寛永年間には空き地となっていたところを人々が「有楽の原、有楽原」と呼んでいたことに由来します。明治五年、有楽町という地名が誕生しました。
  • 江戸時代の迷子案内板-一石橋と迷子しらせ石標一石橋の南詰に「満よひ子の志るべ」と書かれた石標があります。迷子しらせ石標(迷子石)と呼ばれるもので、江戸時代から現存している迷子石はこれが唯一のものとなります。江戸時代は迷子も多く、迷子を探す人、保護する人双方にとってこの迷子石が役に立っていました。迷子石は明治維新後も増えていきました。
  • 八重洲の地名由来-耶揚子と東京駅江戸時代、馬場先門、現在の二重橋前駅付近に「やよすがし」がありました。このやよすがしが現在の八重洲の由来です。やよすがしの「やよす」は、1600年、豊後(現在の大分県)に漂着したヤン・ヨーステンに由来します。ヤン・ヨーステンはウィリアム・アダムスとともにデ・リーフデ号で豊後に漂着しました。その後家康により2人は外交顧問として召し抱えられます。外交顧問となったヤン・ヨーステンの屋敷は日比谷入江を埋め立てたあたり、和田倉門外のあたりにあったと言われています。つまり、やよすがしはヤン・ヨーステン、耶揚子河岸を意味しています。
  • 江戸やっちゃばの変遷-神田青物市場発祥の地神田須田町交差点の近くに、神田青物市場発祥之地の石碑があります。神田川沿いの河岸からの荷揚げ品、日本橋川の鎌倉河岸の荷揚げ品などを扱う市場で、その広さ一万五千坪という規模でした。青物市場の事をやっちゃば、と言いますがセリの声がそのように聞こえたため語源となったという説があります。神田青物市場は昭和に入り秋葉原へ移転、その後大田市場へと移転し現在に至ります。
  • 溜池の名残-外堀溜池櫓台六本木通りと、外堀通りが交わる溜池交差点に溜池発祥の碑があります。溜池山王駅の完成を記念して、平成9年に作られたものと書かれています。 溜池の地名の由来は、江戸時代初期、この辺りを流れていた汐留川上流の清水谷(紀尾井町の…
  • 築地地名の由来-振袖火事と築地本願寺築地の土地は江戸時代の埋め立てによりできた土地です。地名の由来は「地を築く」、まさに埋め立てそのものを表しています。明暦の大火で焼失した本願寺再建の土地として、八丁堀の海上の土地が与えられます。佃島の信徒を中心に1万2700坪を造成し、そのまま拝領することとなります。築地の地名はまさにこの工事、埋め立てそのものを表します。
  • お玉ヶ池種痘所跡近代医学の祖-伊東玄朴と種痘所千代田区岩本町にお玉ヶ池種痘所跡を示す碑があります。お玉ヶ池種痘所は、伊東玄朴らが私財を投じて作った施設です。天然痘の予防接種である種痘事業を中心に、江戸における蘭方医学発展の中心的な施設となりました。
  • 門の石垣が今に残る-一ツ橋東京メトロ東西線、竹橋駅のそばに「一ツ橋」があります。一ツ橋がかかっている日本橋川護岸に江戸時代の石垣が残されています。武州豊島郡江戸庄図にも枡形の門があることがわかります。これが一橋御門で、今見ることができる石垣はこの枡形の石垣の一部と推測できます。一ツ橋のたもとには御三卿の一つ、一橋徳川家の屋敷跡があります。
  • 木場の地名の由来-江戸木置場の跡木場公園江東区木場の地名は、この地にあった材木商人の材木置き場(木置場)に由来します。火災が多い江戸で材木を守るため木置場がこの地に移転したことから地名が付きました。隅田川の河口に近い深川木場は木置場として適した場所でした。