edo→tokyoは2015年8月のオープン以来、東京に残る江戸時代の名残を多く紹介してきました。
複数の記事の中から一部を抜粋してご紹介します。
佃の地名の由来-漁師のための人工島、佃島佃と呼ばれるこの辺りは、江戸時代佃島という人工の小島でした。佃の地名の由来は、寛永年間に摂津国西成郡佃村の漁民たちを招いて、隅田川河口の干潟を埋め立て小島に住まわせたことにあります。今も残る佃煮もこの佃島が発祥という説があります。
隼町の地名の由来-家康と鷹狩国立劇場があるあたりを隼町といいます。隼町の町名がつけられたのは明治に入ってのことです。江戸時代、武家地には町名はついておらず、明治に入り、旧武家地に町名がつけられます。隼町もその一つです。 町名の由来は、家康入城の頃、この辺りに鷹狩のタカを飼育、訓練する鷹匠の屋敷があったことに由来します。家康は鷹狩を非常に好んで行ったことが知られています。江戸近郊では葛西など、かなりの回数、日数を割いて鷹狩を楽しんだことが記録に残っています。
八丁堀の地名の由来-江戸時代の水路八丁堀八丁堀の地名の由来はまさに、江戸時代に築かれた八丁堀にあります。八丁堀はその長さである八町(約872メートル)に由来します。八丁堀は現在埋め立てられ、ポンプ場や公園になっています。また、八丁堀にかけられた稲荷橋の欄干が歩道に残されています。
江東、深川都市化の跡-竪川堅川は万治2年(1659年)に本所奉行の徳山五兵衛重政と山崎四郎左衛門重政が幕府の名を受け開通されました。竪川の名前の由来ですが、江戸城から見てタテ、つまり放射状に伸びた運河であることからです。竪川は明暦の大火後の再開発で掘削されました。目的としては低湿地帯の排水路の役割が主だったようです。ただ、1660年の天下普請で、神田川に舟運が通じることと時期を同じくするため、小名木川などの補助的な運河の役割も果たしたと思われます。
溜池山王の由来-溜池の名残外堀溜池櫓台千代田区永田町に溜池山王駅があります。駅名は江戸時代にこの地にあった人口の池である「溜池」とかつて山王権現と呼ばれた日枝神社に由来します。
御茶ノ水の地名の由来-作られた神田川御茶ノ水の地名の由来はまさに将軍用のお茶に用いるための湧き水があったことにあります。この湧き水は、江戸時代に人工的に作られた神田川の工事により湧き出したものと考えられます。
木場の地名の由来-江戸木置場の跡木場公園江東区木場の地名は、この地にあった材木商人の材木置き場(木置場)に由来します。火災が多い江戸で材木を守るため木置場がこの地に移転したことから地名が付きました。隅田川の河口に近い深川木場は木置場として適した場所でした。
鉄砲洲の地名の由来-鉄砲方と大筒中央区湊に鉄砲洲、という地名があります。鉄砲洲の地名の由来は、幕府鉄砲方の井上・稲富の両家が、この砂州上で大筒の稽古を行っていたという説と、砂州の形が鉄砲に似ているという説があります。稲富家、井上家が務めていた鉄砲方は幕府が所有する鉄砲の制作や修理を担当した鉄砲の技術分野に関する責任者でした。
江戸の名所東海寺-東海寺と沢庵品川に東海寺という寺があります。紫衣事件で流刑となった沢庵和尚が開山したお寺です。沢庵和尚は将軍家光と深い信仰があり、そのためこの品川の地に招かれて東海寺を開きました。
日本橋の由来-江戸時代から現在の日本橋日本橋の名前の由来は諸説あります。江戸時代に作られた時から各街道の中心であり、各国への行程がここから始まることや、日本国内中の人足が集まってかけられたことなど、日本の中心であることをうかがわせます。慶長8年に架橋された日本橋は火災などの焼失による架け替えを経て、明治44年に架けられた20代目が東京の象徴としてあり続けています。
水道橋の由来-神田上水掛樋水道橋駅から御茶ノ水方面に外堀通りを歩くと、歩道わきに「神田上水掛樋跡」の石碑があります。「樋」は管のこと、「掛樋」は上空をわたすための管をさします。水道橋の地名はまさにこの掛樋に由来します。掛樋は江戸時代に作られた上水道、神田上水の水を江戸市中に通水するための水道管の橋でした。この掛樋が現在の水道橋の地名の由来です。
江戸の地名の由来-江戸前島デジタル標高地形図を見ると、今の日本橋から銀座、新橋あたりまで、周囲より標高が高いことがわかります。このあたりは江戸時代、江戸前島と呼ばれる半島でした。江戸前島の周辺、標高地形図で水色になっているあたりは海でした。江戸前島の西側、現在の日比谷公園あたりが当時の日比谷入江です。「江戸」という地名の由来も、この江戸前島、日比谷入江からきているという説があります。入江の戸、つまり海が陸地にいり込んだ場所である「江」に面した場所であるというのがこの説の江戸の由来です。
五箇国条約と攘夷-東禅寺事件東禅寺は、幕末に英国公使館がおかれた寺として知られています。一般市民や下級武士たちの中で、攘夷の気風が高まると、1861年と、1862年に公使館員を襲う東禅寺事件と呼ばれる事件が発生。賠償問題に発展しました。
江戸の名所芝神明宮-だらだら祭りとめ組の喧嘩だらだら祭りなどで知られる芝神明宮はめ組の喧嘩の舞台となった場所です。勧進相撲を木戸銭を払わずに見物しようとした火消の辰五郎と力士の九竜山の喧嘩が大きな騒動に発展しました。当時の火消しは鳶が担っており、職能を生かした破壊消火が行われていました。
ペリー来航の地-浦賀と与力中島三郎助浦賀は江戸時代を通して、港町として栄えました。ペリー来航時に投錨の地となったのも浦賀。ペリー艦隊との交渉は浦賀奉行所を通して行われました。浦賀奉行所与力、中島三郎助は交渉役として初めてペリー艦隊と接触した日本人の1人です。
江戸時代の年末年始-旧暦と大晦日、正月の様子現在の正月に見られるような初詣は江戸時代、あまり一般的ではありませんでした。正月は年神様を家に迎える日であったからです。門松は年神様が家に来るための目印としてあります。年神様を迎え五穀豊穣や子孫繁栄を祈る行事が現在の正月に行われる各行事の原型となっています。
無双の力士-三分坂下報土寺と雷電爲右エ門三分坂下にある報土寺には雷電爲右エ門の墓所があります。当時の住職が同郷であったよしみから雷電は梵鐘を寄進。その墓所も報土寺にあります。
江戸時代の迷子案内板-一石橋と迷子しらせ石標一石橋の南詰に「満よひ子の志るべ」と書かれた石標があります。迷子しらせ石標(迷子石)と呼ばれるもので、江戸時代から現存している迷子石はこれが唯一のものとなります。江戸時代は迷子も多く、迷子を探す人、保護する人双方にとってこの迷子石が役に立っていました。迷子石は明治維新後も増えていきました。
宝くじの起源-富くじと椙森神社現在の宝くじの起源は江戸で行われた富くじ(富興行)にあります。もともとは寺社の再建のための費用集めとして、幕府に公認の上行われたものでした。その後富くじは江戸で大流行しますが、天保の改革により禁止され終焉をむかえました。
下町深川発祥の地-深川神明宮江戸に入城し、都市開発を行う家康は適所に人材を起用しました。 家康の旧領である、駿河には江戸のような低湿地、河口の地形がなく、家来たちにはそのような土地を開発する技術がなかったといいます。 そこで目をつけたのは摂州人、つ…
「おくのほそ道」への出発点-芭蕉庵跡と千住大橋(1)江東区常盤に芭蕉稲荷があります。芭蕉が1680年から住んだ草庵があった跡地であり、芭蕉の名は、この庵に植えられた芭蕉に由来します。「古池や 蛙飛びこむ 水のをと」の句を詠んだのもこの庵と言われています。また、おくのほそ道の出発点もこの庵でした。
蔵前の地名の由来-御米蔵と札差台東区に蔵前という地名があります。江戸時代の幕府の御米蔵がその地名の由来となっており、蔵前にあった御米蔵は1620年、和田倉あたりにあった御米蔵を移転して作られたものです。米蔵から武士の給料として払い出される米の受け取りを代行したのが札差です。札差たちは金融業にも手を広げ、江戸の粋を代表する存在となっていきます。
江戸時代の船着場-日本橋堀留町東京メトロ人形町駅そばに、堀留町という交差点があります。堀留町の地名もまた、江戸のまちづくりに由来します。 堀留町の堀留とは、川を上流から埋めていき、下流部を埋め残し水路としたものです。それとは逆に、陸地を掘り込み、水路…
海辺の宿場町-東海道品川宿東海道1番目の宿場が品川です。品川宿は江戸からも近く、また海に面した風光明媚な宿場町でしたので大変栄えたといいます。本陣が1つ、脇本陣が2つ、旅籠が93軒が軒を連ねていました。旧東海道である北品川商店街から、台場方面へのわずかな下り坂が海沿いの宿場町であったことの名残です。
日本近代化の礎-江川太郎左衛門とジョン万次郎墨田区亀沢に江川太郎左衛門終焉の地の案内板があります。この場所には幕末期において伊豆代官を務めた江川太郎左衛門の江戸屋敷がありました。江戸に召し出され、太郎左衛門の配下となったジョン万次郎もまた、この地に居住しています。
船堀の地名の由来-船堀新川川岸江戸川区に船堀、という地名があります。地名の由来は読んで字のごとく、船用の堀、があったことからで、新川(船堀川)とそこから別れる堀入りが由来となっています。
江戸勧進相撲発祥の地-四谷笹寺四谷に笹寺(長善寺)というお寺があります。天正3年(1575年)に建てられた庵がその起源といわれ、江戸時代以前からある古いお寺です。 目次四谷笹寺の碑勧進相撲とは勧進相撲の石碑と横綱江戸時代の勧進相撲の歩み 四谷笹寺の碑…
坂本龍馬が学んだ道場-桶町千葉道場北辰一刀流の開祖、千葉周作は、北辰一刀流を教える道場を構えます。これが玄武館です。北辰一刀流は一躍有名になり、道場の門人は6000名を超える大道場となりました。門人の増加に伴い作られたと言われているのが龍馬が学んだ、桶町千葉道場です。千葉周作の弟、千葉貞吉が師範代を務めました。玄武館、そして桶町千葉道場で学んだ門人には坂本龍馬をはじめ、清河八郎、山南敬助、山岡鉄舟などがいます。玄武館、桶町千葉道場が明治維新の原動力の一端を担いました。
江戸城の門から水準点へ-赤坂見附石垣国道246号線、衆議院議長公邸そばに赤坂見附の交差点があります。見附とは敵の侵入を発見する施設を備えた門のことです。江戸城には外堀にここ赤坂見附や、市ヶ谷見附、四谷見附など、枡形の石垣で囲まれた門が多く築かれました。 こ…
春日通りの名前の由来-麟祥院と春日局国道254号線の山手線内側の区間は、「春日通り」と呼ばれます。由来は、家光の乳母で、大奥の制度を築いた春日局にあります。文京区湯島に麟祥院という、春日局の願により作られたお寺があり、境内には春日局の墓所もあります。春日局とゆかりが深いことから麟祥院の前を通る254号線は春日通りと呼ばれています。
品川宿と攘夷-御殿山公使館焼き討ち事件品川宿に近い御殿山。桜の名所として知られたこの地は、幕末、台場築造のための土砂採石場となるなど時代のあおりを受けます。開国後、各国の公使館の建設予定地となり、イギリス公使館は完成間近の状態となりました。しかし、文久2年、長州藩志士たちにより、焼き討ちにあってしまいます。
丸の内の地名の由来-大名小路からビジネス街への変遷丸の内の地名の由来は、江戸城内(丸の内)にあることに由来します。江戸時代、丸の内は大名屋敷が並び大名小路と呼ばれていました。明治に入り、三菱に払い下げられた大名小路は一丁倫敦と呼ばれるレンガ造りの町並に変わっていきます。