edo→tokyoは2015年8月のオープン以来、東京に残る江戸時代の名残を多く紹介してきました。

複数の記事の中から一部を抜粋してご紹介します。

  • 坂本龍馬が学んだ道場-桶町千葉道場北辰一刀流の開祖、千葉周作は、北辰一刀流を教える道場を構えます。これが玄武館です。北辰一刀流は一躍有名になり、道場の門人は6000名を超える大道場となりました。門人の増加に伴い作られたと言われているのが龍馬が学んだ、桶町千葉道場です。千葉周作の弟、千葉貞吉が師範代を務めました。玄武館、そして桶町千葉道場で学んだ門人には坂本龍馬をはじめ、清河八郎、山南敬助、山岡鉄舟などがいます。玄武館、桶町千葉道場が明治維新の原動力の一端を担いました。
  • 品川すさき砂州の先端に祀られた弁天跡-利田神社品川区にある利田神社は、江戸時代、目黒川河口の砂州に弁天堂が築かれたことがその起こりです。弁天堂は洲崎弁天と呼ばれ境内には江戸湾で捕獲された鯨の骨を埋めた鯨塚があります。江戸時代、紀州を中心に捕鯨が行われ、捕獲した鯨は骨に至るまで有効利用されました。
  • 月見名所の名残-高輪石垣高輪の地名は高台の縄手道(あぜ道)を意味する高縄手に由来します。 高縄手が転じて、高縄、高輪となったそうです。 以前は人家も少ない場所だったようですが、江戸時代には東海道を往来する人々や、風光明媚な行楽地として栄えたよう…
  • 榎本武揚銅像江戸時代の別荘地-向島と榎本武揚幕末、明治にかけて活躍した榎本武揚。73歳で没するまでの3年間を向島の地で過ごしました。向島は江戸時代から観光地としてにぎわい、料理屋や別荘が立ち並んでいました。
  • 第三台場から見たレインボーブリッジお台場の地名の由来-江戸時代の軍事遺跡第三台場お台場の地名の由来は、江戸時代にこの地に築かれた台場(大砲台)にあります。品川台場は1853年6月のペリー来航がきっかけとなり、海防強化のために築かれました。品川台場は当初の計画では第1台場から第11台場までの11が作られることになっていましたが、資金難により1~7台場までが着手、内、第4、第7台場が仕掛途中で中止となっています。現在は第3台場が公園として残されているほか、第6台場が人が立ち入らない状態で残されています。
  • 関口、水道の地名の由来-江戸初期の名残神田上水跡文京区に「関口」という地名があります。江戸初期に造られた小石川上水へ水を引き入れるため、神田川に造られた堰に由来するという説があります。小石川上水は江戸の町の発展とともに連続的に整備され、神田上水と呼ばれるようになります。
  • 白金の清正公様-白金覚林寺と加藤清正港区白金台、桜田通りに清正公前(せいしょうこうまえ)、という交差点があります。この交差点名は近くにある覚林寺に由来します。清正が連れ帰った朝鮮の王子の一人が建立した寺が覚林寺で、清正と覚林寺は深いつながりがあります。清正は熱心な法華経の信仰者で、信長、そして秀吉と受け継いだ南無妙法蓮華経の旗を頂戴し、これを文禄・慶長の役にも用いています。
  • 小網町の町名板小網町の地名の由来-江戸の漁と小網町中央区に日本橋小網町(こあみちょう)という地名があります。町名の由来としてはっきりしたことは分かっていません。当地にあった、小網稲荷からその名を取ったという説もあります。ただ、江戸時代初期には入江が、それ以降も魚河岸が存在していたこともあり、江戸の漁業と関連した町名である可能性が高いと考えられます。
  • 門の石垣が今に残る-一ツ橋東京メトロ東西線、竹橋駅のそばに「一ツ橋」があります。一ツ橋がかかっている日本橋川護岸に江戸時代の石垣が残されています。武州豊島郡江戸庄図にも枡形の門があることがわかります。これが一橋御門で、今見ることができる石垣はこの枡形の石垣の一部と推測できます。一ツ橋のたもとには御三卿の一つ、一橋徳川家の屋敷跡があります。
  • 中野犬屋敷跡-生類憐みの令と綱吉徳川家5代将軍、綱吉。生類憐みの令で知られる綱吉は、犬公方などと揶揄され、悪政を行った暴君というイメージが付きまといます。生類憐みの令にある綱吉の思いとは何だったのでしょうか。
  • 二条城東南隅櫓徳川家の繁栄と衰退を見つめた城-二条城の歴史二条城は家康によって慶長年間に築かれた城です。対朝廷の儀式などに利用され、寛永期にはさらなる改修がなされました。幕末には大政奉還の発表が行われたことで有名です。二条城内には、慶長期、寛永期の普請の名残を見ることができます。
  • 江戸時代の迷子案内板-一石橋と迷子しらせ石標一石橋の南詰に「満よひ子の志るべ」と書かれた石標があります。迷子しらせ石標(迷子石)と呼ばれるもので、江戸時代から現存している迷子石はこれが唯一のものとなります。江戸時代は迷子も多く、迷子を探す人、保護する人双方にとってこの迷子石が役に立っていました。迷子石は明治維新後も増えていきました。
  • 「おくのほそ道」への出発点-芭蕉庵跡と千住大橋(2)目次「おくのほそ道」への出発点-芭蕉庵跡と千住大橋(1)をみる芭蕉庵からの旅立ち、おくのほそ道千住大橋、矢立初めの地 「おくのほそ道」への出発点-芭蕉庵跡と千住大橋(1)をみる 芭蕉庵からの旅立ち、おくのほそ道 月日は百…
  • 上野戦争を今に伝える-寛永寺黒門寛永寺は江戸幕府が開かれてから草創された新しい寺院です。開山の天海僧正は江戸城の鬼門に当たる上野を守るため、現在の上野公園の位置に寛永寺を創りました。幕末、寛永寺は彰義隊と新政府軍で行われた上野戦争の舞台となりました。荒川区の円通寺に移築された寛永寺の黒門には、当時の銃弾の跡を見ることが出来ます。
  • 旧養生所の井戸-赤ひげ先生と小石川養生所小石川植物園内に、旧養生所の井戸があります。この井戸は江戸時代、この地にあった、小石川養生所で使われていたもの。この地には赤ひげ先生として知られる小川笙船の働きかけで作られた庶民のための診療所がありました。
  • 江戸の地名の由来-江戸前島デジタル標高地形図を見ると、今の日本橋から銀座、新橋あたりまで、周囲より標高が高いことがわかります。このあたりは江戸時代、江戸前島と呼ばれる半島でした。江戸前島の周辺、標高地形図で水色になっているあたりは海でした。江戸前島の西側、現在の日比谷公園あたりが当時の日比谷入江です。「江戸」という地名の由来も、この江戸前島、日比谷入江からきているという説があります。入江の戸、つまり海が陸地にいり込んだ場所である「江」に面した場所であるというのがこの説の江戸の由来です。
  • 水道橋の由来-神田上水掛樋水道橋駅から御茶ノ水方面に外堀通りを歩くと、歩道わきに「神田上水掛樋跡」の石碑があります。「樋」は管のこと、「掛樋」は上空をわたすための管をさします。水道橋の地名はまさにこの掛樋に由来します。掛樋は江戸時代に作られた上水道、神田上水の水を江戸市中に通水するための水道管の橋でした。この掛樋が現在の水道橋の地名の由来です。
  • 深川不動堂門前仲町の地名の由来-深川不動堂と成田山新勝寺門前仲町の地名の由来は、富岡八幡宮の別当寺であった永代寺の門前町として栄えたことにあります。永代寺は廃仏毀釈により無くなりましたが、関係のある深川不動は出開帳や、歌舞伎人気と相まって大きく発展していきました。
  • 目黒の行人坂目黒行人坂-大円寺と江戸の大火目黒にある行人坂。その途中に大円寺があります。湯殿山の行者である大海法印が江戸時代初期に開いた道場がその始まりとされ、行人坂の名前も行人が多く住むようになったからと言われています。大円寺境内にある石仏群は江戸三大大火の一つ、行人坂の大火の犠牲者慰霊のために建立されました。
  • 常磐橋現存の石造アーチ橋-常磐橋と常磐橋門跡日本橋本石町に常磐橋という橋があります。江戸時代、常磐橋門にかけられた橋で、江戸六口の1つに数えられていました。明治10年に改架された石造アーチ橋が現存しています。
  • 江戸時代の鮨の屋台握りずし発祥の地-鮨の発展と江戸前鮨握りずしを考案したとされる与兵衛鮨が両国にありました。鮨はもともと保存食として作られていましたが、江戸湾の自然や江戸の文化を反映し、やがて握りずしの形へと姿を変えていきました。
  • 水戸徳川家の上屋敷-小石川後楽園文京区、東京ドームのそばに小石川後楽園があります。面積約7万㎡の回遊式築山泉水庭園です。水戸徳川家上屋敷(当初は中屋敷、のち上屋敷火災後、上屋敷となる)の庭として1629年(寛永6年)、造園が開始され、1659年に完成し…
  • 麹町の地名の由来-麹と江戸の食麹町の地名の起源は古く中世にさかのぼります。府中に国府がおかれていたころ、甲府方(こふかた)氏がこの道筋に居を構えていました。国府方(こふかた)は文字通り国府への道筋、国府路(こふぢ)を意味します。この姓、また、国府への道筋「国府路(こふぢ)」が現在の町名の由来の一説とされています。
  • 五角形に見る台場跡-台場小現在の台場小学校がある所に、江戸時代、御殿山下台場が建設されました。当初予定されていた11基の台場建設が資金難により変更され、作られたのが御殿山下台場です。台場建設の費用は75万両。資金の一部は日本各地からの上納金があてられました。
  • 江戸城の門から水準点へ-赤坂見附石垣国道246号線、衆議院議長公邸そばに赤坂見附の交差点があります。見附とは敵の侵入を発見する施設を備えた門のことです。江戸城には外堀にここ赤坂見附や、市ヶ谷見附、四谷見附など、枡形の石垣で囲まれた門が多く築かれました。 こ…
  • 平久橋波除碑高潮の脅威を今に伝える-平久橋波除碑江東区平久橋に波除碑という石碑があります。寛政3年(1791年)に発生した高潮によりこの辺りは甚大な被害がありました。そのため幕府は東西520m近くの土地を空地としてさらに被害が発生しないようにしました。その空地の東西に設置されたのが波除碑です。
  • 雉子橋の名前の由来-江戸時代のもてなしと食日本橋川にかかる橋に、雉子橋があります。朝鮮通信使に供されるキジを囲う鳥小屋がそばにあったため、雉子橋と呼ばれるようになったというのが名前の由来です。キジをはじめ、通信使には朝鮮で好んで食べられていた食材を利用して、大変豪華な饗応料理が準備されました。
  • 按針通りの名前の由来-三浦按針と家康按針通りの名前は、江戸時代初期、この地に屋敷を与えられていた、三浦按針(ウィリアムアダムス)に由来します。ウィリアムアダムスは家康の信頼を受け、外交顧問として幕府に迎え入れられ、日本で生涯を終えました。
  • 虎ノ門の地名の由来-江戸の町づくりと虎ノ門虎ノ門の地名の由来は江戸時代、外堀に作られた虎之御門にあります。虎之御門の名の由来は門が四神の1つ、白虎の方角に作られたことが理由とされています。物流、軍略上優れた土地に作られた江戸の町は日本の中心として長く発展していくこととなりました。
  • 日本橋揮毫日本橋の由来-江戸時代から現在の日本橋日本橋の名前の由来は諸説あります。江戸時代に作られた時から各街道の中心であり、各国への行程がここから始まることや、日本国内中の人足が集まってかけられたことなど、日本の中心であることをうかがわせます。慶長8年に架橋された日本橋は火災などの焼失による架け替えを経て、明治44年に架けられた20代目が東京の象徴としてあり続けています。
  • 横網(よこあみ)の地名の由来-浅草海苔と隅田川横網(よこあみ)という地名の由来は、漁師が横に網を干していたため、という説があります。江戸時代初め、隅田川では海苔が取れ、河岸には海苔干が見られました。隅田川でとれた海苔は浅草海苔として江戸の名産として知られていました。
  • 名所図会東海禅寺江戸の名所東海寺-東海寺と沢庵品川に東海寺という寺があります。紫衣事件で流刑となった沢庵和尚が開山したお寺です。沢庵和尚は将軍家光と深い信仰があり、そのためこの品川の地に招かれて東海寺を開きました。