edo→tokyoは2015年8月のオープン以来、東京に残る江戸時代の名残を多く紹介してきました。

複数の記事の中から一部を抜粋してご紹介します。

  • 江戸時代の輪郭-首都高速2020年夏、1964年東京オリンピック以来、56年ぶり2回目の夏季オリンピックが東京で開催される予定です。オリンピックに向けて、競技場を始め、様々な設備、インフラが整備され東京の街も大きく変わることでしょう。 1964…
  • 両国の相撲起源の地-回向院回向院は勧進相撲の定場所としても有名です。勧進相撲とは寺社建立の資金となる浄財を集めるために行われた相撲のことです。江戸時代初期にはそのような形での興行しか許可されていませんでした。回向院をはじめ、いろいろな寺社で勧進相撲が行われていましたが、天保4年(1833年)、回向院が定場所となり、回向院で行うことが定例となりました。この回向院の定場所が今に続く、両国国技館の前身です。
  • 最後のサムライ-山岡鉄舟と全生庵谷中に全生庵という臨済宗のお寺があります。明治13年(1860年)山岡鉄舟が、明治維新で国のために命を落とした殉難者のために建てた寺で、自身の墓所もそこにあります。慶応4年(1868年)、政府軍の江戸城攻撃が目前に迫った際、旧幕府軍の使者として大総督府(政府軍本部)の西郷隆盛に面会すべく駿府へと向かい、無血開城の一助となりました。
  • 麹町の地名の由来-麹と江戸の食麹町の地名の起源は古く中世にさかのぼります。府中に国府がおかれていたころ、甲府方(こふかた)氏がこの道筋に居を構えていました。国府方(こふかた)は文字通り国府への道筋、国府路(こふぢ)を意味します。この姓、また、国府への道筋「国府路(こふぢ)」が現在の町名の由来の一説とされています。
  • 坂本龍馬が学んだ道場-桶町千葉道場北辰一刀流の開祖、千葉周作は、北辰一刀流を教える道場を構えます。これが玄武館です。北辰一刀流は一躍有名になり、道場の門人は6000名を超える大道場となりました。門人の増加に伴い作られたと言われているのが龍馬が学んだ、桶町千葉道場です。千葉周作の弟、千葉貞吉が師範代を務めました。玄武館、そして桶町千葉道場で学んだ門人には坂本龍馬をはじめ、清河八郎、山南敬助、山岡鉄舟などがいます。玄武館、桶町千葉道場が明治維新の原動力の一端を担いました。
  • 高輪に残る門のあと-高輪大木戸高輪ゲートウェイ駅近くには江戸時代、高輪大木戸がありました。江戸時代には各町ごとに木戸が設けられ、自身番をおいて警護させていました。大木戸は各街道の江戸の入り口に当たる場所に設けられた門です。高輪大木戸は街道の中でも交通量が多かった東海道に設けられ、現在でもその石垣を見ることができます。
  • 浦賀港ペリー来航の地-浦賀と与力中島三郎助浦賀は江戸時代を通して、港町として栄えました。ペリー来航時に投錨の地となったのも浦賀。ペリー艦隊との交渉は浦賀奉行所を通して行われました。浦賀奉行所与力、中島三郎助は交渉役として初めてペリー艦隊と接触した日本人の1人です。
  • 赤穂浪士討ち入りの舞台-吉良邸跡両国の回向院の側に本所松坂町公園という公園があります。ここは赤穂事件で有名な吉良上野介の上屋敷があった場所です。四十七士の討ち入りはまさにこの場所で行われました。8400㎡という広大な敷地でしたが、現在は屋敷の北側の一角が公園として残されています。
  • 羽村取水堰江戸発展の原点-羽村取水堰東京都羽村市を流れる多摩川に羽村取水堰があります。投げ渡し堰と呼ばれる可動堰と固定堰の2つを組み合わせた堰で、投げ渡し堰の部分を見ると、支柱の間に丸太を渡して、水をせき止めていることがわかります。投げ渡し堰は増水の際、堰が決壊することを防ぐために役立ちます。羽村取水堰の水門から先は玉川上水です。玉川上水は江戸に水を引くために作られた人工の水路です。羽村取水堰から四谷大木戸までその距離43㎞もあります。
  • 杉並区今川の地名の由来-今川氏真と観泉寺東京都杉並区に今川という地名があります。地名の由来は江戸時代、この地が今川家の知行地であったことに由来します。
  • 江戸時代の上水場-玉川上水御改場跡新宿区四谷四丁目交差点のそばに玉川上水記念碑があります。江戸時代、ここに玉川上水御改場(水番屋)があったことにちなみます。 水番屋というのは、上水の水質、水量管理の役人のための詰所です。玉川上水は1654年、三代目家光の…
  • 椙森神社冨塚宝くじの起源-富くじと椙森神社現在の宝くじの起源は江戸で行われた富くじ(富興行)にあります。もともとは寺社の再建のための費用集めとして、幕府に公認の上行われたものでした。その後富くじは江戸で大流行しますが、天保の改革により禁止され終焉をむかえました。
  • 百人町の地名の由来-御家人の暮らし新宿区に百人町の地名の由来は、将軍直轄の軍団である、鉄砲百人組の同心(与力の下の身分の下級役人)たちの組屋敷があったことにあります。この地に百人組の組屋敷が作られ江戸の守りを固めていました。
  • 古典落語芝浜の舞台-本芝公園芝浜という有名な古典落語があります。芝浜の舞台、魚の行商を行う亭主が財布を拾う砂浜が港区の芝にありました。現在の本芝公園の辺りが芝浜にあたります。本芝公園内には亭主の仕事場であった雑魚場跡を示す案内板もあり、ここが落語の舞台芝浜であったことが推測できます。
  • 井伊直弼終焉の地-江戸城桜田門江戸城の主要な門はほとんどが「桝形門」という形式の門でした。桜田門もこの桝形門の形をとっており、現在でもその形が昔のままに残っています。桝形門は防衛上非常に有利な作りになっています。少人数の攻撃側に対して、大人数で挑むことができます。桜田門はこのような江戸城の優れた防備を今に見ることができます。このような江戸城防備の桝形門の典型といえる桜田門ですが、桜田門の名前が知られる要因となった出来事は「桜田門外の変」かと思います。老中井伊直弼が水戸浪士を中心とする勤王攘夷派に暗殺された事件です。
  • 秋葉山常夜灯秋葉原の地名の由来–秋葉講と秋葉神社江戸時代、代表者が参拝の旅に出る「代参講」という仕組みがありました。秋葉山に参拝する為の集団を秋葉講と呼びます。秋葉原地名の由来も秋葉山に関係します。江戸時代火除地として空き地になっていたこの地にあった、火防の社を、江戸の人々は火防信仰で有名な秋葉大権現が祀られていると勘違い。秋葉大権現の原っぱ、「秋葉っ原」とよんだことが定着して、地名の由来となりました。
  • 信濃町の地名の由来-一行院と永井尚政慶長5年(1605年)四月、永井直勝の嫡男である尚政は従五位下信濃守の官位を与えられています。その後寛永3年(1626年)、直勝の死後、尚政が家督を継ぎ、永井信濃守を名乗ります。そのため、永井信濃守の下屋敷があったこの辺りが信濃町と呼ばれるようになりました。
  • 江戸野菜、亀戸大根の碑江戸時代の生産、物流-下り物と下らぬ物江戸は武士などの非生産人口が多い一大消費地でした。江戸で消費される生活必需品や、嗜好品は京・大阪から送られてきました。京・大阪から送られた物資は下り物と呼ばれました。呉服、美術品など、文化先進地帯である上方から送られた高品質なものを下り物、と総称され、江戸で作られるものはくだらないものとして、低品質なものという意識があったようです。「くだらない」の語源はここにあるという説があります。
  • 白金の清正公様-白金覚林寺と加藤清正港区白金台、桜田通りに清正公前(せいしょうこうまえ)、という交差点があります。この交差点名は近くにある覚林寺に由来します。清正が連れ帰った朝鮮の王子の一人が建立した寺が覚林寺で、清正と覚林寺は深いつながりがあります。清正は熱心な法華経の信仰者で、信長、そして秀吉と受け継いだ南無妙法蓮華経の旗を頂戴し、これを文禄・慶長の役にも用いています。
  • 江戸名所図会に描かれた待乳山台地の河川浸食の跡-待乳山台東区浅草に、待乳山聖天があります。正しくは待乳山本龍院というお寺で、最近ではパワースポットとしても人気のようです。 その人気は江戸時代も同じだったようで、江戸名所図会、東都名所にも描かれています。先に上げたのは東都名所…
  • 錦糸町の地名の由来-錦糸堀と南割下水錦糸町の地名の由来は江戸時代、この辺りにあった「錦糸堀」にあります。南割下水のことを錦糸堀と呼び、その由来になったという説があります。
  • 江戸時代の塩の道-小名木川江東区、隅田川と荒川の間をほぼ一直線に横切る川が小名木川です。この小名木川は家康により作られた人工の運河です。小名木川は家康入城時、低地であったこの辺りで干潟前面の水路を確定するため、また小名木川以北の干拓地の排水路としての役割を果たしていたようです。もう一つ、大きな役割として江戸の町への物資輸送の水路としての役割がありました。小名木川掘削で特に着目されたのは塩の運搬でした。
  • 伊奈忠次、伊奈忠治墓所江戸の礎を築いた伊奈家-利根川東遷と内川廻し初代関東代官を務めた伊奈忠次の次男、伊奈忠治により、利根川東遷が進められました。忠治が始めた利根川東遷の事業は30年以上にも及びました。利根川東遷により、内川廻しという内陸の河川を経由した水路が確立し、江戸の発展に寄与しました。
  • 芭蕉庵史跡展望庭園内の芭蕉像「おくのほそ道」への出発点-芭蕉庵跡と千住大橋(1)江東区常盤に芭蕉稲荷があります。芭蕉が1680年から住んだ草庵があった跡地であり、芭蕉の名は、この庵に植えられた芭蕉に由来します。「古池や 蛙飛びこむ 水のをと」の句を詠んだのもこの庵と言われています。また、おくのほそ道の出発点もこの庵でした。
  • 江戸時代の芝居町-木挽町と江戸歌舞伎猿若勘三郎が寛永元年(1624年)、中橋(日本橋と京橋の中ほど)に歌舞伎狂言座を建てることを許されます。座の名称を猿若座から、本姓の中村をとり中村座としました。この中村座が江戸歌舞伎の起こりとなりました。
  • 有楽町の地名の由来-織田有楽斎と茶有楽町、という地名の由来には諸説ありますが、織田信長の弟、織田長益の号「有楽斎」にあるというものがあります。慶長年間に織田有楽斎の屋敷があり、その後寛永年間には空き地となっていたところを人々が「有楽の原、有楽原」と呼んでいたことに由来します。明治五年、有楽町という地名が誕生しました。
  • 堅川堤防江東、深川都市化の跡-竪川堅川は万治2年(1659年)に本所奉行の徳山五兵衛重政と山崎四郎左衛門重政が幕府の名を受け開通されました。竪川の名前の由来ですが、江戸城から見てタテ、つまり放射状に伸びた運河であることからです。竪川は明暦の大火後の再開発で掘削されました。目的としては低湿地帯の排水路の役割が主だったようです。ただ、1660年の天下普請で、神田川に舟運が通じることと時期を同じくするため、小名木川などの補助的な運河の役割も果たしたと思われます。
  • 東禅寺山門五箇国条約と攘夷-東禅寺事件東禅寺は、幕末に英国公使館がおかれた寺として知られています。一般市民や下級武士たちの中で、攘夷の気風が高まると、1861年と、1862年に公使館員を襲う東禅寺事件と呼ばれる事件が発生。賠償問題に発展しました。
  • 名所図会東海禅寺江戸の名所東海寺-東海寺と沢庵品川に東海寺という寺があります。紫衣事件で流刑となった沢庵和尚が開山したお寺です。沢庵和尚は将軍家光と深い信仰があり、そのためこの品川の地に招かれて東海寺を開きました。
  • 板橋の地名の由来-中山道板橋と橋の変遷東京都板橋区、中山道と石神井川が交差する場所にかかる橋に「板橋」があります。板橋の地名は石神井川にかかる橋(板橋)に由来するもの、地形に由来するもの(イタは崖、河岸、ハシは端を表す)の所説があります。どの説がただしいか、はっきりしたことはわかっていませんが、板橋という地名は「義経記」など、鎌倉-室町時代に成立、書写された軍記物に登場していることから、南北朝時代には存在したと思われます。この板橋が、中山道1番目の宿場町にあり、さまざまな歴史を見続けてきた橋であることは間違いありません。
  • 浅草吉原への通い道-山谷堀待乳山のふもとから、吉原大門まで続く水路に山谷堀がありました。現在は山谷堀公園としてその形をとどめています。山谷堀を猪牙船と呼ばれる船で上がり、吉原へと向かう「山谷通い」は贅沢な遊びでした。この猪牙船は吉原通いにも利用されたため、別名を山谷船といいます。
  • 江戸時代の水運の後-六間堀江戸に入城した家康は、土地の確保のため、低湿地の埋め立てを進めました。 しかし、ただ闇雲に土地を埋め立てたのではなく、水運のため、運河を埋め残す形で残しています。江東区を縦断する子名木川もその一つ。行徳で製塩された塩を江…