edo→tokyoは2015年8月のオープン以来、東京に残る江戸時代の名残を多く紹介してきました。

複数の記事の中から一部を抜粋してご紹介します。

  • 酪農のさと江戸時代酪農の発祥の地-嶺岡牧千葉県南房総市に「酪農のさと」という牧場があります。酪農のさとは日本酪農の発祥の地といわれています。江戸時代白牛酪という乳製品を作り江戸の町に販売されました。
  • 第三台場から見たレインボーブリッジお台場の地名の由来-江戸時代の軍事遺跡第三台場お台場の地名の由来は、江戸時代にこの地に築かれた台場(大砲台)にあります。品川台場は1853年6月のペリー来航がきっかけとなり、海防強化のために築かれました。品川台場は当初の計画では第1台場から第11台場までの11が作られることになっていましたが、資金難により1~7台場までが着手、内、第4、第7台場が仕掛途中で中止となっています。現在は第3台場が公園として残されているほか、第6台場が人が立ち入らない状態で残されています。
  • 江戸時代の名残を残す-上野寛永寺と上野公園上野公園一帯は江戸時代、東叡山寛永寺というお寺がありました。江戸城の鬼門に当たる方角に作られた祈祷寺で、京都における比叡山延暦寺に倣って建立されました。現在でも上野戦争の傷跡が残る本坊表門など江戸時代の名残が残ります。
  • 江戸時代の桜の名所、飛鳥山-飛鳥山の由来と花見の起源飛鳥山の名前の由来は、平安末期、豊島氏が紀州和歌山熊野より勧請したといわれる、飛鳥明神、王子権現よりその名前が来ているようです。1720年、吉宗により飛鳥山の地に桜が植えられ、江戸市民に開放された桜の名所となりました。宗教行事が起源であった桜の花見は江戸時代に入り娯楽として広がっていきました。
  • 江戸の地名の由来-江戸前島デジタル標高地形図を見ると、今の日本橋から銀座、新橋あたりまで、周囲より標高が高いことがわかります。このあたりは江戸時代、江戸前島と呼ばれる半島でした。江戸前島の周辺、標高地形図で水色になっているあたりは海でした。江戸前島の西側、現在の日比谷公園あたりが当時の日比谷入江です。「江戸」という地名の由来も、この江戸前島、日比谷入江からきているという説があります。入江の戸、つまり海が陸地にいり込んだ場所である「江」に面した場所であるというのがこの説の江戸の由来です。
  • 勝海舟生誕の地の碑勝海舟生誕の地-氷川清話に見る勝海舟の原点勝海舟は、本所亀沢町、現在の両国に生まれます。その後、本所入江町(本所緑)に引っ越しています。それぞれ石碑、案内板を見ることができます。勝海舟の談話をまとめた本に氷川清話があります。自身の生い立ちや人物評、文学評等、実に多くの談話が口語体で記されており、生々しい歴史を感じ取ることができます。
  • 誓教寺葛飾北斎の墓所誓教寺-北斎と江戸の引越し台東区元浅草に誓教寺というお寺があります。誓教寺には、「富嶽三六景」などの作品で知られる葛飾北斎の墓があります。北斎は30回以上の画号の変更や、93回にも及ぶ転居など、その奇行でも知られています。 目次墓石に刻まれる画号…
  • 芝大神宮の狛犬江戸の名所芝神明宮-だらだら祭りとめ組の喧嘩だらだら祭りなどで知られる芝神明宮はめ組の喧嘩の舞台となった場所です。勧進相撲を木戸銭を払わずに見物しようとした火消の辰五郎と力士の九竜山の喧嘩が大きな騒動に発展しました。当時の火消しは鳶が担っており、職能を生かした破壊消火が行われていました。
  • 江戸時代の水運の後-六間堀江戸に入城した家康は、土地の確保のため、低湿地の埋め立てを進めました。 しかし、ただ闇雲に土地を埋め立てたのではなく、水運のため、運河を埋め残す形で残しています。江東区を縦断する子名木川もその一つ。行徳で製塩された塩を江…
  • 関口、水道の地名の由来-江戸初期の名残神田上水跡文京区に「関口」という地名があります。江戸初期に造られた小石川上水へ水を引き入れるため、神田川に造られた堰に由来するという説があります。小石川上水は江戸の町の発展とともに連続的に整備され、神田上水と呼ばれるようになります。
  • 品川宿と攘夷-御殿山公使館焼き討ち事件品川宿に近い御殿山。桜の名所として知られたこの地は、幕末、台場築造のための土砂採石場となるなど時代のあおりを受けます。開国後、各国の公使館の建設予定地となり、イギリス公使館は完成間近の状態となりました。しかし、文久2年、長州藩志士たちにより、焼き討ちにあってしまいます。
  • アシの原に作られた歓楽街-元吉原上記にあげたのは人形町付近の標高図です。 (国土地理院 レーザー測量 東京都区部中心部を一部トリミングして転載 http://www1.gsi.go.jp/geowww/Laser_HP/image/tokyo1(DEM…
  • 名所図会東海禅寺江戸の名所東海寺-東海寺と沢庵品川に東海寺という寺があります。紫衣事件で流刑となった沢庵和尚が開山したお寺です。沢庵和尚は将軍家光と深い信仰があり、そのためこの品川の地に招かれて東海寺を開きました。
  • 船橋東照宮船橋の東照宮-船橋御殿跡と鷹狩船橋市に小さな「東照宮」があります。船橋には江戸時代初期、家康が東金方面で鷹狩を行う際に休憩・宿泊する御殿が作られました。東照宮はその跡地に建立されたものです。
  • 井伊直弼終焉の地-江戸城桜田門江戸城の主要な門はほとんどが「桝形門」という形式の門でした。桜田門もこの桝形門の形をとっており、現在でもその形が昔のままに残っています。桝形門は防衛上非常に有利な作りになっています。少人数の攻撃側に対して、大人数で挑むことができます。桜田門はこのような江戸城の優れた防備を今に見ることができます。このような江戸城防備の桝形門の典型といえる桜田門ですが、桜田門の名前が知られる要因となった出来事は「桜田門外の変」かと思います。老中井伊直弼が水戸浪士を中心とする勤王攘夷派に暗殺された事件です。
  • 二条城東南隅櫓徳川家の繁栄と衰退を見つめた城-二条城の歴史二条城は家康によって慶長年間に築かれた城です。対朝廷の儀式などに利用され、寛永期にはさらなる改修がなされました。幕末には大政奉還の発表が行われたことで有名です。二条城内には、慶長期、寛永期の普請の名残を見ることができます。
  • 横網(よこあみ)の地名の由来-浅草海苔と隅田川横網(よこあみ)という地名の由来は、漁師が横に網を干していたため、という説があります。江戸時代初め、隅田川では海苔が取れ、河岸には海苔干が見られました。隅田川でとれた海苔は浅草海苔として江戸の名産として知られていました。
  • 江戸野菜、亀戸大根の碑江戸時代の生産、物流-下り物と下らぬ物江戸は武士などの非生産人口が多い一大消費地でした。江戸で消費される生活必需品や、嗜好品は京・大阪から送られてきました。京・大阪から送られた物資は下り物と呼ばれました。呉服、美術品など、文化先進地帯である上方から送られた高品質なものを下り物、と総称され、江戸で作られるものはくだらないものとして、低品質なものという意識があったようです。「くだらない」の語源はここにあるという説があります。
  • 日本近代化の礎-江川太郎左衛門とジョン万次郎墨田区亀沢に江川太郎左衛門終焉の地の案内板があります。この場所には幕末期において伊豆代官を務めた江川太郎左衛門の江戸屋敷がありました。江戸に召し出され、太郎左衛門の配下となったジョン万次郎もまた、この地に居住しています。
  • 浅草吉原への通い道-山谷堀待乳山のふもとから、吉原大門まで続く水路に山谷堀がありました。現在は山谷堀公園としてその形をとどめています。山谷堀を猪牙船と呼ばれる船で上がり、吉原へと向かう「山谷通い」は贅沢な遊びでした。この猪牙船は吉原通いにも利用されたため、別名を山谷船といいます。
  • 勧進相撲発祥の碑江戸勧進相撲発祥の地-四谷笹寺四谷に笹寺(長善寺)というお寺があります。天正3年(1575年)に建てられた庵がその起源といわれ、江戸時代以前からある古いお寺です。 目次四谷笹寺の碑勧進相撲とは勧進相撲の石碑と横綱江戸時代の勧進相撲の歩み 四谷笹寺の碑…
  • 大伝馬町、小伝馬町の地名の由来-三伝馬町の起こりと宝田神社大伝馬町、小伝馬町の地名の由来は江戸時代に伝馬役を請け負っていた名主がすんでいたことに由来します。江戸城の拡大に伴い、伝馬役が移転した地が大伝馬町、小伝馬町となりました。この地にある宝田神社は移転前の宝田村の名を残しています。
  • 五角形に見る台場跡-台場小現在の台場小学校がある所に、江戸時代、御殿山下台場が建設されました。当初予定されていた11基の台場建設が資金難により変更され、作られたのが御殿山下台場です。台場建設の費用は75万両。資金の一部は日本各地からの上納金があてられました。
  • 源空寺にある伊能忠敬の墓石実測地図の父-伊能忠敬が眠る源空寺台東区上野に源空寺というお寺があります。このお寺には、日本で始めて実測地図を作成したことで知られる、伊能忠敬の墓所があります。伊能忠敬の墓石の隣には、寛政の改暦を行った高橋至時の墓所もあります。幕府の天文方であった高橋至時に師事した関係から、二人の墓所が並んでいます。
  • 深川不動堂門前仲町の地名の由来-深川不動堂と成田山新勝寺門前仲町の地名の由来は、富岡八幡宮の別当寺であった永代寺の門前町として栄えたことにあります。永代寺は廃仏毀釈により無くなりましたが、関係のある深川不動は出開帳や、歌舞伎人気と相まって大きく発展していきました。
  • 両国の地名の由来-両国橋と隅田川花火大会の起源両国の地名は隅田川にかけられた両国橋に由来します。両国橋の当時の正式な名前は大橋。武蔵野国、下総国の両国にかかる橋であったことから「両国橋」という俗称がありました。その後、元禄六年(1693年)、下流に新大橋が架橋されたときに両国橋が正式名称となりました。その後、貞享3年(1686年)には、両国橋東のエリアも武蔵野国に編成されたのですが、両国橋の名前はそのままに残り、両国、という地名の由来となりました。
  • 山下町日比谷外さくら田江戸時代の年末年始-旧暦と大晦日、正月の様子現在の正月に見られるような初詣は江戸時代、あまり一般的ではありませんでした。正月は年神様を家に迎える日であったからです。門松は年神様が家に来るための目印としてあります。年神様を迎え五穀豊穣や子孫繁栄を祈る行事が現在の正月に行われる各行事の原型となっています。
  • 浅草天文台跡の碑江戸時代の天文観測所-浅草天文台台東区蔵前に天文台跡の案内板があります。案内板によると、天明2年(1782年)牛込藁店(新宿区袋町)から移転、新築されたとあります。天文台には子午線を観測するための象限儀、また、指針の回転により天体の位置と緯度、経度を測る簡天儀が備え付けられていました。こうした天文台を利用しての天体観測の目的は暦を作ること、また、暦の作成方法(暦法)の改定のためでした。
  • 新島襄生誕の地-安中藩上屋敷跡千代田区学士会館のあたりに、安中藩上屋敷がありました。この地は安中藩士であった新島襄生誕の地でもあります。新島襄は江戸で洋学を中心に学び、函館から密航。米国へと渡ります。10年間の渡米を経て日本に帰国。キリスト教を元にした私塾を開きました。
  • 伊奈忠次、伊奈忠治墓所江戸の礎を築いた伊奈家-利根川東遷と内川廻し初代関東代官を務めた伊奈忠次の次男、伊奈忠治により、利根川東遷が進められました。忠治が始めた利根川東遷の事業は30年以上にも及びました。利根川東遷により、内川廻しという内陸の河川を経由した水路が確立し、江戸の発展に寄与しました。
  • 最後のサムライ-山岡鉄舟と全生庵谷中に全生庵という臨済宗のお寺があります。明治13年(1860年)山岡鉄舟が、明治維新で国のために命を落とした殉難者のために建てた寺で、自身の墓所もそこにあります。慶応4年(1868年)、政府軍の江戸城攻撃が目前に迫った際、旧幕府軍の使者として大総督府(政府軍本部)の西郷隆盛に面会すべく駿府へと向かい、無血開城の一助となりました。
  • 信濃町の地名の由来-一行院と永井尚政慶長5年(1605年)四月、永井直勝の嫡男である尚政は従五位下信濃守の官位を与えられています。その後寛永3年(1626年)、直勝の死後、尚政が家督を継ぎ、永井信濃守を名乗ります。そのため、永井信濃守の下屋敷があったこの辺りが信濃町と呼ばれるようになりました。