edo→tokyoは2015年8月のオープン以来、東京に残る江戸時代の名残を多く紹介してきました。

複数の記事の中から一部を抜粋してご紹介します。

  • 浅草天文台跡の碑江戸時代の天文観測所-浅草天文台台東区蔵前に天文台跡の案内板があります。案内板によると、天明2年(1782年)牛込藁店(新宿区袋町)から移転、新築されたとあります。天文台には子午線を観測するための象限儀、また、指針の回転により天体の位置と緯度、経度を測る簡天儀が備え付けられていました。こうした天文台を利用しての天体観測の目的は暦を作ること、また、暦の作成方法(暦法)の改定のためでした。
  • 余水吐跡玉川上水の遺構-余水吐跡四谷大木戸跡の近く、新宿御苑の脇に茂みがあります。この茂みは余水吐の流路の跡。江戸時代、玉川上水の余水を渋谷川に排水する役割をはたしていました。
  • 猿江の地名の由来-猿江神社と猿江恩賜公園江東区猿江の地名は、この地にある猿江神社に由来します。平安時代の康平年中に、源頼義の家臣であった猿藤太という武将の亡骸がこの地の入江で葬られたことから猿江、という地名が残されています。
  • 江戸時代の桜の名所、飛鳥山-飛鳥山の由来と花見の起源飛鳥山の名前の由来は、平安末期、豊島氏が紀州和歌山熊野より勧請したといわれる、飛鳥明神、王子権現よりその名前が来ているようです。1720年、吉宗により飛鳥山の地に桜が植えられ、江戸市民に開放された桜の名所となりました。宗教行事が起源であった桜の花見は江戸時代に入り娯楽として広がっていきました。
  • 八重洲の地名由来-耶揚子と東京駅江戸時代、馬場先門、現在の二重橋前駅付近に「やよすがし」がありました。このやよすがしが現在の八重洲の由来です。やよすがしの「やよす」は、1600年、豊後(現在の大分県)に漂着したヤン・ヨーステンに由来します。ヤン・ヨーステンはウィリアム・アダムスとともにデ・リーフデ号で豊後に漂着しました。その後家康により2人は外交顧問として召し抱えられます。外交顧問となったヤン・ヨーステンの屋敷は日比谷入江を埋め立てたあたり、和田倉門外のあたりにあったと言われています。つまり、やよすがしはヤン・ヨーステン、耶揚子河岸を意味しています。
  • 江戸時代の花見-桜の名所と桜餅娯楽が少ない江戸時代。梅やツツジなど四季折々の花を対象に花見が行われました。中でも桜の花見は今と変わらず人気でした。隅田川が桜の名所となったのは江戸時代が起源。現在にも続く桜餅も人気となり、墨堤は大変な賑わいだったようです。
  • 時代とともに姿を変えた-桜の名所御殿山御殿山の名前の由来は、江戸時代、この地に将軍の御殿が設けられたことにあります。御殿は江戸時代初期には鷹狩の際の休息所、茶会等に利用されました。その後桜の名所として知られるようになります。幕末には台場建造のための土取場となり、窪地が今も残されています。
  • 日本近代化の礎-江川太郎左衛門とジョン万次郎墨田区亀沢に江川太郎左衛門終焉の地の案内板があります。この場所には幕末期において伊豆代官を務めた江川太郎左衛門の江戸屋敷がありました。江戸に召し出され、太郎左衛門の配下となったジョン万次郎もまた、この地に居住しています。
  • 虎ノ門の地名の由来-江戸の町づくりと虎ノ門虎ノ門の地名の由来は江戸時代、外堀に作られた虎之御門にあります。虎之御門の名の由来は門が四神の1つ、白虎の方角に作られたことが理由とされています。物流、軍略上優れた土地に作られた江戸の町は日本の中心として長く発展していくこととなりました。
  • 時代を越えて受け継がれる名城-江戸城江戸城が現在の位置に作られたのは、長禄元年(1457年) のこと。太田道灌によって作られました。武蔵野台地の東端に位置し、舌状の谷に守られた自然の要塞であったこと、湧き水が得やすかったことからこの地が選ばれました。家康入城後は諸国の大名による天下普請により、大城塞へと生まれ変わります。
  • 江戸時代の船着場-日本橋堀留町東京メトロ人形町駅そばに、堀留町という交差点があります。堀留町の地名もまた、江戸のまちづくりに由来します。 堀留町の堀留とは、川を上流から埋めていき、下流部を埋め残し水路としたものです。それとは逆に、陸地を掘り込み、水路…
  • 名所図会東海禅寺江戸の名所東海寺-東海寺と沢庵品川に東海寺という寺があります。紫衣事件で流刑となった沢庵和尚が開山したお寺です。沢庵和尚は将軍家光と深い信仰があり、そのためこの品川の地に招かれて東海寺を開きました。
  • 「おくのほそ道」への出発点-芭蕉庵跡と千住大橋(2)目次「おくのほそ道」への出発点-芭蕉庵跡と千住大橋(1)をみる芭蕉庵からの旅立ち、おくのほそ道千住大橋、矢立初めの地 「おくのほそ道」への出発点-芭蕉庵跡と千住大橋(1)をみる 芭蕉庵からの旅立ち、おくのほそ道 月日は百…
  • 両国の相撲起源の地-回向院回向院は勧進相撲の定場所としても有名です。勧進相撲とは寺社建立の資金となる浄財を集めるために行われた相撲のことです。江戸時代初期にはそのような形での興行しか許可されていませんでした。回向院をはじめ、いろいろな寺社で勧進相撲が行われていましたが、天保4年(1833年)、回向院が定場所となり、回向院で行うことが定例となりました。この回向院の定場所が今に続く、両国国技館の前身です。
  • 高輪に残る門のあと-高輪大木戸高輪ゲートウェイ駅近くには江戸時代、高輪大木戸がありました。江戸時代には各町ごとに木戸が設けられ、自身番をおいて警護させていました。大木戸は各街道の江戸の入り口に当たる場所に設けられた門です。高輪大木戸は街道の中でも交通量が多かった東海道に設けられ、現在でもその石垣を見ることができます。
  • 板橋の地名の由来-中山道板橋と橋の変遷東京都板橋区、中山道と石神井川が交差する場所にかかる橋に「板橋」があります。板橋の地名は石神井川にかかる橋(板橋)に由来するもの、地形に由来するもの(イタは崖、河岸、ハシは端を表す)の所説があります。どの説がただしいか、はっきりしたことはわかっていませんが、板橋という地名は「義経記」など、鎌倉-室町時代に成立、書写された軍記物に登場していることから、南北朝時代には存在したと思われます。この板橋が、中山道1番目の宿場町にあり、さまざまな歴史を見続けてきた橋であることは間違いありません。
  • 御茶ノ水の地名の由来-作られた神田川御茶ノ水の地名の由来はまさに将軍用のお茶に用いるための湧き水があったことにあります。この湧き水は、江戸時代に人工的に作られた神田川の工事により湧き出したものと考えられます。
  • 羽村取水堰江戸発展の原点-羽村取水堰東京都羽村市を流れる多摩川に羽村取水堰があります。投げ渡し堰と呼ばれる可動堰と固定堰の2つを組み合わせた堰で、投げ渡し堰の部分を見ると、支柱の間に丸太を渡して、水をせき止めていることがわかります。投げ渡し堰は増水の際、堰が決壊することを防ぐために役立ちます。羽村取水堰の水門から先は玉川上水です。玉川上水は江戸に水を引くために作られた人工の水路です。羽村取水堰から四谷大木戸までその距離43㎞もあります。
  • 江戸発展を見る二つの倉-和田倉、蔵前東京には「蔵」のつく地名がいくつかあります。浅草近くの「蔵前」。その名の通り、江戸時代、この地に米蔵があったことに由来します。幕末の1858年に出版された「安政改正御江戸大絵図」を見ると、蔵前のあたりに八本の舟入堀がある…
  • 最後のサムライ-山岡鉄舟と全生庵谷中に全生庵という臨済宗のお寺があります。明治13年(1860年)山岡鉄舟が、明治維新で国のために命を落とした殉難者のために建てた寺で、自身の墓所もそこにあります。慶応4年(1868年)、政府軍の江戸城攻撃が目前に迫った際、旧幕府軍の使者として大総督府(政府軍本部)の西郷隆盛に面会すべく駿府へと向かい、無血開城の一助となりました。
  • 堅川堤防江東、深川都市化の跡-竪川堅川は万治2年(1659年)に本所奉行の徳山五兵衛重政と山崎四郎左衛門重政が幕府の名を受け開通されました。竪川の名前の由来ですが、江戸城から見てタテ、つまり放射状に伸びた運河であることからです。竪川は明暦の大火後の再開発で掘削されました。目的としては低湿地帯の排水路の役割が主だったようです。ただ、1660年の天下普請で、神田川に舟運が通じることと時期を同じくするため、小名木川などの補助的な運河の役割も果たしたと思われます。
  • 日本橋揮毫日本橋の由来-江戸時代から現在の日本橋日本橋の名前の由来は諸説あります。江戸時代に作られた時から各街道の中心であり、各国への行程がここから始まることや、日本国内中の人足が集まってかけられたことなど、日本の中心であることをうかがわせます。慶長8年に架橋された日本橋は火災などの焼失による架け替えを経て、明治44年に架けられた20代目が東京の象徴としてあり続けています。
  • 東禅寺山門五箇国条約と攘夷-東禅寺事件東禅寺は、幕末に英国公使館がおかれた寺として知られています。一般市民や下級武士たちの中で、攘夷の気風が高まると、1861年と、1862年に公使館員を襲う東禅寺事件と呼ばれる事件が発生。賠償問題に発展しました。
  • 神田川と柳神田川沿いに造られた土塁-柳原土手神田川沿いには江戸時代、柳原土手という土手がありました。名前の由来は太田道灌の時代に鬼門を守るために柳を植えたとも、吉宗の時代に柳を植えさせたともいわれています。柳原土手は江戸城外郭の土塁としての意味合いや、神田川沿いの堤防としての意味合いがあったと考えられます。現在は取り壊され、柳原通りという通り名が残っています。
  • 大伝馬町、小伝馬町の地名の由来-三伝馬町の起こりと宝田神社大伝馬町、小伝馬町の地名の由来は江戸時代に伝馬役を請け負っていた名主がすんでいたことに由来します。江戸城の拡大に伴い、伝馬役が移転した地が大伝馬町、小伝馬町となりました。この地にある宝田神社は移転前の宝田村の名を残しています。
  • 江戸の地名の由来-江戸前島デジタル標高地形図を見ると、今の日本橋から銀座、新橋あたりまで、周囲より標高が高いことがわかります。このあたりは江戸時代、江戸前島と呼ばれる半島でした。江戸前島の周辺、標高地形図で水色になっているあたりは海でした。江戸前島の西側、現在の日比谷公園あたりが当時の日比谷入江です。「江戸」という地名の由来も、この江戸前島、日比谷入江からきているという説があります。入江の戸、つまり海が陸地にいり込んだ場所である「江」に面した場所であるというのがこの説の江戸の由来です。
  • 古典落語芝浜の舞台-本芝公園芝浜という有名な古典落語があります。芝浜の舞台、魚の行商を行う亭主が財布を拾う砂浜が港区の芝にありました。現在の本芝公園の辺りが芝浜にあたります。本芝公園内には亭主の仕事場であった雑魚場跡を示す案内板もあり、ここが落語の舞台芝浜であったことが推測できます。
  • 江戸時代の卸売市場-日本橋魚河岸日本橋の北詰に日本橋魚河岸跡の案内板があります。摂津の佃村から江戸に来た森孫右衛門の一族が、献上した白魚の残りを販売したことが日本橋魚河岸の起こりです。日本橋魚河岸は魚市場として発展をし、幕末をむかえます。明治になってからも日本橋は魚市場として機能し続けますが、関東大震災がきっかけとなり、築地に移転をすることとなります。
  • 海を名前に残す公園-和田倉噴水公園東京駅から徒歩5分ほどのところにある和田倉噴水公園には昔和田倉門という江戸城の御門がありました。和田倉の「ワダ」は海を表す古い言葉です。その名の通り、徳川家康が江戸に入城した1590年、この辺りは日比谷入江と呼ばれ、海が入り込む場所でした。和田倉は海辺に作られた倉があったことに由来する名前です。
  • 開港資料館のたまくす開国を見守ったたまくす-日米和親条約と横浜横浜開港資料館の中庭に「たまくす」と呼ばれる木があります。ペリー上陸の絵図にも描かれているこの木は、日米和親条約の締結、その後の日米修好通商条約による開港を見続けてきました。開港以降発展していく横浜の町をたまくすは今も見続けています。
  • 洲崎神社波除碑風光明媚な海辺の神社-洲崎弁天江戸名所図絵に「洲崎弁財天社」という一枚があります。 この洲崎弁財天社は現在も、洲崎神社として残っています。 江戸名所図絵を見ると海辺の神社であることがわかります。 元はこのあたり広大な干潟が広がっており、潮干狩りや、初…
  • 丸の内の地名の由来-大名小路からビジネス街への変遷丸の内の地名の由来は、江戸城内(丸の内)にあることに由来します。江戸時代、丸の内は大名屋敷が並び大名小路と呼ばれていました。明治に入り、三菱に払い下げられた大名小路は一丁倫敦と呼ばれるレンガ造りの町並に変わっていきます。