edo→tokyoは2015年8月のオープン以来、東京に残る江戸時代の名残を多く紹介してきました。

複数の記事の中から一部を抜粋してご紹介します。

  • 三分坂と築地塀無双の力士-三分坂下報土寺と雷電爲右エ門三分坂下にある報土寺には雷電爲右エ門の墓所があります。当時の住職が同郷であったよしみから雷電は梵鐘を寄進。その墓所も報土寺にあります。
  • 平久橋波除碑高潮の脅威を今に伝える-平久橋波除碑江東区平久橋に波除碑という石碑があります。寛政3年(1791年)に発生した高潮によりこの辺りは甚大な被害がありました。そのため幕府は東西520m近くの土地を空地としてさらに被害が発生しないようにしました。その空地の東西に設置されたのが波除碑です。
  • 江戸時代の上水場-玉川上水御改場跡新宿区四谷四丁目交差点のそばに玉川上水記念碑があります。江戸時代、ここに玉川上水御改場(水番屋)があったことにちなみます。 水番屋というのは、上水の水質、水量管理の役人のための詰所です。玉川上水は1654年、三代目家光の…
  • 江戸時代の輪郭-首都高速2020年夏、1964年東京オリンピック以来、56年ぶり2回目の夏季オリンピックが東京で開催される予定です。オリンピックに向けて、競技場を始め、様々な設備、インフラが整備され東京の街も大きく変わることでしょう。 1964…
  • 新島襄生誕の地-安中藩上屋敷跡千代田区学士会館のあたりに、安中藩上屋敷がありました。この地は安中藩士であった新島襄生誕の地でもあります。新島襄は江戸で洋学を中心に学び、函館から密航。米国へと渡ります。10年間の渡米を経て日本に帰国。キリスト教を元にした私塾を開きました。
  • 神田川と柳神田川沿いに造られた土塁-柳原土手神田川沿いには江戸時代、柳原土手という土手がありました。名前の由来は太田道灌の時代に鬼門を守るために柳を植えたとも、吉宗の時代に柳を植えさせたともいわれています。柳原土手は江戸城外郭の土塁としての意味合いや、神田川沿いの堤防としての意味合いがあったと考えられます。現在は取り壊され、柳原通りという通り名が残っています。
  • 虎ノ門の地名の由来-江戸の町づくりと虎ノ門虎ノ門の地名の由来は江戸時代、外堀に作られた虎之御門にあります。虎之御門の名の由来は門が四神の1つ、白虎の方角に作られたことが理由とされています。物流、軍略上優れた土地に作られた江戸の町は日本の中心として長く発展していくこととなりました。
  • 三囲神社の鳥居江戸商家と寺社-三囲神社と三越墨田区向島に三囲(みめぐり)神社があります。社殿再興の際に神像が出土し、そのときに現れた白狐が神像の周りを三度回ったことから三囲神社と名付けられたとされます。境内には三越のライオンが座っています。三越の原点、江戸の大店三井越後屋と三囲神社の関係性からこのライオンが三囲神社に存在しています。
  • 恵比寿の地名の由来-日本の近代化を支えた三田用水跡恵比寿の地名はエビスビールを作っていた日本麦酒がこの地にあったことに由来します。江戸時代に作られた三田用水の水を利用するためこの地にビール工場が作られました。
  • 谷中天王寺江戸の大寺院-谷中墓地と天王寺、谷中感応寺日暮里駅のすぐ近くにある谷中霊園は江戸時代、谷中感応寺の一部でした。感応寺は日蓮宗不受布施派であったため、幕府の弾圧を受け、天台宗へと改宗します。その後日蓮宗への帰宗の働きがあった際、天王寺へと名前を変えて谷中の地に残っています。
  • 江戸やっちゃばの変遷-神田青物市場発祥の地神田須田町交差点の近くに、神田青物市場発祥之地の石碑があります。神田川沿いの河岸からの荷揚げ品、日本橋川の鎌倉河岸の荷揚げ品などを扱う市場で、その広さ一万五千坪という規模でした。青物市場の事をやっちゃば、と言いますがセリの声がそのように聞こえたため語源となったという説があります。神田青物市場は昭和に入り秋葉原へ移転、その後大田市場へと移転し現在に至ります。
  • 錦糸町の地名の由来-錦糸堀と南割下水錦糸町の地名の由来は江戸時代、この辺りにあった「錦糸堀」にあります。南割下水のことを錦糸堀と呼び、その由来になったという説があります。
  • 萩と龍眼寺秋の七草、萩の名所-龍眼寺江東区の龍眼寺は、別名萩寺と呼ばれています。江戸時代から萩の名所として知られ、多くの人々に愛されていました。萩は万葉集にも詠われ、秋の七草の1つとされています。現在でも秋になると龍眼寺では萩を鑑賞することができます。
  • 第三台場から見たレインボーブリッジお台場の地名の由来-江戸時代の軍事遺跡第三台場お台場の地名の由来は、江戸時代にこの地に築かれた台場(大砲台)にあります。品川台場は1853年6月のペリー来航がきっかけとなり、海防強化のために築かれました。品川台場は当初の計画では第1台場から第11台場までの11が作られることになっていましたが、資金難により1~7台場までが着手、内、第4、第7台場が仕掛途中で中止となっています。現在は第3台場が公園として残されているほか、第6台場が人が立ち入らない状態で残されています。
  • 品川すさき砂州の先端に祀られた弁天跡-利田神社品川区にある利田神社は、江戸時代、目黒川河口の砂州に弁天堂が築かれたことがその起こりです。弁天堂は洲崎弁天と呼ばれ境内には江戸湾で捕獲された鯨の骨を埋めた鯨塚があります。江戸時代、紀州を中心に捕鯨が行われ、捕獲した鯨は骨に至るまで有効利用されました。
  • 紅葉狩りの名所-品川宿海晏寺品川区南品川に海晏寺という曹洞宗のお寺があります。海晏寺は紅葉狩りの名所として知られていました。海晏寺は品川宿にほど近く、品川宿には飯盛女と呼ばれる遊女が多くいました。つまり紅葉狩りに行く口実で、こうした遊郭へ遊びに行っていたようです。
  • 麹町の地名の由来-麹と江戸の食麹町の地名の起源は古く中世にさかのぼります。府中に国府がおかれていたころ、甲府方(こふかた)氏がこの道筋に居を構えていました。国府方(こふかた)は文字通り国府への道筋、国府路(こふぢ)を意味します。この姓、また、国府への道筋「国府路(こふぢ)」が現在の町名の由来の一説とされています。
  • 江戸時代の花見-桜の名所と桜餅娯楽が少ない江戸時代。梅やツツジなど四季折々の花を対象に花見が行われました。中でも桜の花見は今と変わらず人気でした。隅田川が桜の名所となったのは江戸時代が起源。現在にも続く桜餅も人気となり、墨堤は大変な賑わいだったようです。
  • 時代を越えて受け継がれる名城-江戸城江戸城が現在の位置に作られたのは、長禄元年(1457年) のこと。太田道灌によって作られました。武蔵野台地の東端に位置し、舌状の谷に守られた自然の要塞であったこと、湧き水が得やすかったことからこの地が選ばれました。家康入城後は諸国の大名による天下普請により、大城塞へと生まれ変わります。
  • 赤坂の地名の由来-関東ローム層の赤土と坂赤坂の地名の由来は諸説あります。赤根山に登る坂「赤坂」からついたという説、赤土の坂「赤坂」からついたという説です。どちらも赤坂という坂の名前からついたということは共通しています。赤坂という名称の坂は現在残っていませんが、紀伊国坂のかつての名称が赤坂であったといわれています。関東ローム層の赤土でおおわれる東京には、赤坂の他にも「赤」がついた地名が多く残ります。
  • 江戸時代の水運の後-六間堀江戸に入城した家康は、土地の確保のため、低湿地の埋め立てを進めました。 しかし、ただ闇雲に土地を埋め立てたのではなく、水運のため、運河を埋め残す形で残しています。江東区を縦断する子名木川もその一つ。行徳で製塩された塩を江…
  • 銚子と江戸を結ぶ物流拠点-箱崎川行徳河岸首都高速向島線の経路には、江戸時代箱崎川という川が流れていました。蠣殻河岸、行徳河岸などの荷揚げ場が置かれ、江戸湊の一端を担っていました。行徳河岸の起こりは1632年、南葛西郡本行徳村の村民が土地を借り受け、江戸行徳間で物資の輸送を開始したことにあります。当時行徳は塩の一大生産地で、この塩を運ぶため小名木川、行徳新川の掘削を行い行徳河岸で荷揚げしていました。行徳河岸は利根川を経由し銚子ともつながっていました。
  • 二条城東南隅櫓徳川家の繁栄と衰退を見つめた城-二条城の歴史二条城は家康によって慶長年間に築かれた城です。対朝廷の儀式などに利用され、寛永期にはさらなる改修がなされました。幕末には大政奉還の発表が行われたことで有名です。二条城内には、慶長期、寛永期の普請の名残を見ることができます。
  • 榎本武揚銅像江戸時代の別荘地-向島と榎本武揚幕末、明治にかけて活躍した榎本武揚。73歳で没するまでの3年間を向島の地で過ごしました。向島は江戸時代から観光地としてにぎわい、料理屋や別荘が立ち並んでいました。
  • 品川宿と攘夷-御殿山公使館焼き討ち事件品川宿に近い御殿山。桜の名所として知られたこの地は、幕末、台場築造のための土砂採石場となるなど時代のあおりを受けます。開国後、各国の公使館の建設予定地となり、イギリス公使館は完成間近の状態となりました。しかし、文久2年、長州藩志士たちにより、焼き討ちにあってしまいます。
  • 江戸時代の桜の名所、飛鳥山-飛鳥山の由来と花見の起源飛鳥山の名前の由来は、平安末期、豊島氏が紀州和歌山熊野より勧請したといわれる、飛鳥明神、王子権現よりその名前が来ているようです。1720年、吉宗により飛鳥山の地に桜が植えられ、江戸市民に開放された桜の名所となりました。宗教行事が起源であった桜の花見は江戸時代に入り娯楽として広がっていきました。
  • 伊奈忠次、伊奈忠治墓所江戸の礎を築いた伊奈家-利根川東遷と内川廻し初代関東代官を務めた伊奈忠次の次男、伊奈忠治により、利根川東遷が進められました。忠治が始めた利根川東遷の事業は30年以上にも及びました。利根川東遷により、内川廻しという内陸の河川を経由した水路が確立し、江戸の発展に寄与しました。
  • 江戸名所図会に描かれた待乳山台地の河川浸食の跡-待乳山台東区浅草に、待乳山聖天があります。正しくは待乳山本龍院というお寺で、最近ではパワースポットとしても人気のようです。 その人気は江戸時代も同じだったようで、江戸名所図会、東都名所にも描かれています。先に上げたのは東都名所…
  • 浅草天文台跡の碑江戸時代の天文観測所-浅草天文台台東区蔵前に天文台跡の案内板があります。案内板によると、天明2年(1782年)牛込藁店(新宿区袋町)から移転、新築されたとあります。天文台には子午線を観測するための象限儀、また、指針の回転により天体の位置と緯度、経度を測る簡天儀が備え付けられていました。こうした天文台を利用しての天体観測の目的は暦を作ること、また、暦の作成方法(暦法)の改定のためでした。
  • 門の石垣が今に残る-一ツ橋東京メトロ東西線、竹橋駅のそばに「一ツ橋」があります。一ツ橋がかかっている日本橋川護岸に江戸時代の石垣が残されています。武州豊島郡江戸庄図にも枡形の門があることがわかります。これが一橋御門で、今見ることができる石垣はこの枡形の石垣の一部と推測できます。一ツ橋のたもとには御三卿の一つ、一橋徳川家の屋敷跡があります。
  • 鷹狩の鷹場跡-仲台院と加納甚内目次加納甚内が眠る仲台院江戸近郊に指定された鷹場綱差役、加納甚内鳥見役による鷹場の支配 加納甚内が眠る仲台院 江戸川区に仲台院という浄土宗のお寺があります。現地案内版では、應誉良道上人が天文8年(1539年)に阿弥陀如来…
  • 日本近代化の礎-江川太郎左衛門とジョン万次郎墨田区亀沢に江川太郎左衛門終焉の地の案内板があります。この場所には幕末期において伊豆代官を務めた江川太郎左衛門の江戸屋敷がありました。江戸に召し出され、太郎左衛門の配下となったジョン万次郎もまた、この地に居住しています。