edo→tokyoは2015年8月のオープン以来、東京に残る江戸時代の名残を多く紹介してきました。

複数の記事の中から一部を抜粋してご紹介します。

  • 江戸時代の水運の後-六間堀江戸に入城した家康は、土地の確保のため、低湿地の埋め立てを進めました。 しかし、ただ闇雲に土地を埋め立てたのではなく、水運のため、運河を埋め残す形で残しています。江東区を縦断する子名木川もその一つ。行徳で製塩された塩を江…
  • 最後のサムライ-山岡鉄舟と全生庵谷中に全生庵という臨済宗のお寺があります。明治13年(1860年)山岡鉄舟が、明治維新で国のために命を落とした殉難者のために建てた寺で、自身の墓所もそこにあります。慶応4年(1868年)、政府軍の江戸城攻撃が目前に迫った際、旧幕府軍の使者として大総督府(政府軍本部)の西郷隆盛に面会すべく駿府へと向かい、無血開城の一助となりました。
  • 中川船番所跡にかかる番所橋水上交通の関所-中川船番所跡東大島の小名木川と旧中川がクロスする位置に中川船番所跡があります。小名木川は江戸時代に作られた人口の水路です。水運に因り江戸に入る物資、人を取り締まるために、小名木川からの江戸の入り口に当たるこの場所に中川船番所が作られました。
  • 東禅寺山門五箇国条約と攘夷-東禅寺事件東禅寺は、幕末に英国公使館がおかれた寺として知られています。一般市民や下級武士たちの中で、攘夷の気風が高まると、1861年と、1862年に公使館員を襲う東禅寺事件と呼ばれる事件が発生。賠償問題に発展しました。
  • 第三台場から見たレインボーブリッジお台場の地名の由来-江戸時代の軍事遺跡第三台場お台場の地名の由来は、江戸時代にこの地に築かれた台場(大砲台)にあります。品川台場は1853年6月のペリー来航がきっかけとなり、海防強化のために築かれました。品川台場は当初の計画では第1台場から第11台場までの11が作られることになっていましたが、資金難により1~7台場までが着手、内、第4、第7台場が仕掛途中で中止となっています。現在は第3台場が公園として残されているほか、第6台場が人が立ち入らない状態で残されています。
  • 木場の地名の由来-江戸木置場の跡木場公園江東区木場の地名は、この地にあった材木商人の材木置き場(木置場)に由来します。火災が多い江戸で材木を守るため木置場がこの地に移転したことから地名が付きました。隅田川の河口に近い深川木場は木置場として適した場所でした。
  • 江戸時代の船着場-日本橋堀留町東京メトロ人形町駅そばに、堀留町という交差点があります。堀留町の地名もまた、江戸のまちづくりに由来します。 堀留町の堀留とは、川を上流から埋めていき、下流部を埋め残し水路としたものです。それとは逆に、陸地を掘り込み、水路…
  • 堅川堤防江東、深川都市化の跡-竪川堅川は万治2年(1659年)に本所奉行の徳山五兵衛重政と山崎四郎左衛門重政が幕府の名を受け開通されました。竪川の名前の由来ですが、江戸城から見てタテ、つまり放射状に伸びた運河であることからです。竪川は明暦の大火後の再開発で掘削されました。目的としては低湿地帯の排水路の役割が主だったようです。ただ、1660年の天下普請で、神田川に舟運が通じることと時期を同じくするため、小名木川などの補助的な運河の役割も果たしたと思われます。
  • 江戸時代の桜の名所、飛鳥山-飛鳥山の由来と花見の起源飛鳥山の名前の由来は、平安末期、豊島氏が紀州和歌山熊野より勧請したといわれる、飛鳥明神、王子権現よりその名前が来ているようです。1720年、吉宗により飛鳥山の地に桜が植えられ、江戸市民に開放された桜の名所となりました。宗教行事が起源であった桜の花見は江戸時代に入り娯楽として広がっていきました。
  • 千鳥ヶ淵飲料水確保のためのダム湖-千鳥ヶ淵、牛ヶ淵千鳥ヶ淵、牛ヶ淵は家康が江戸に入城直後に人工的に作られたダム湖でした。台地面からの河川、湧水の流れをせき止め湖として、飲み水の確保を行いました。
  • 板橋の地名の由来-中山道板橋と橋の変遷東京都板橋区、中山道と石神井川が交差する場所にかかる橋に「板橋」があります。板橋の地名は石神井川にかかる橋(板橋)に由来するもの、地形に由来するもの(イタは崖、河岸、ハシは端を表す)の所説があります。どの説がただしいか、はっきりしたことはわかっていませんが、板橋という地名は「義経記」など、鎌倉-室町時代に成立、書写された軍記物に登場していることから、南北朝時代には存在したと思われます。この板橋が、中山道1番目の宿場町にあり、さまざまな歴史を見続けてきた橋であることは間違いありません。
  • 神田川と柳神田川沿いに造られた土塁-柳原土手神田川沿いには江戸時代、柳原土手という土手がありました。名前の由来は太田道灌の時代に鬼門を守るために柳を植えたとも、吉宗の時代に柳を植えさせたともいわれています。柳原土手は江戸城外郭の土塁としての意味合いや、神田川沿いの堤防としての意味合いがあったと考えられます。現在は取り壊され、柳原通りという通り名が残っています。
  • 浅草吉原への通い道-山谷堀待乳山のふもとから、吉原大門まで続く水路に山谷堀がありました。現在は山谷堀公園としてその形をとどめています。山谷堀を猪牙船と呼ばれる船で上がり、吉原へと向かう「山谷通い」は贅沢な遊びでした。この猪牙船は吉原通いにも利用されたため、別名を山谷船といいます。
  • 江戸やっちゃばの変遷-神田青物市場発祥の地神田須田町交差点の近くに、神田青物市場発祥之地の石碑があります。神田川沿いの河岸からの荷揚げ品、日本橋川の鎌倉河岸の荷揚げ品などを扱う市場で、その広さ一万五千坪という規模でした。青物市場の事をやっちゃば、と言いますがセリの声がそのように聞こえたため語源となったという説があります。神田青物市場は昭和に入り秋葉原へ移転、その後大田市場へと移転し現在に至ります。
  • 江戸城の門から水準点へ-赤坂見附石垣国道246号線、衆議院議長公邸そばに赤坂見附の交差点があります。見附とは敵の侵入を発見する施設を備えた門のことです。江戸城には外堀にここ赤坂見附や、市ヶ谷見附、四谷見附など、枡形の石垣で囲まれた門が多く築かれました。 こ…
  • 恵比寿の地名の由来-日本の近代化を支えた三田用水跡恵比寿の地名はエビスビールを作っていた日本麦酒がこの地にあったことに由来します。江戸時代に作られた三田用水の水を利用するためこの地にビール工場が作られました。
  • 芭蕉庵史跡展望庭園内の芭蕉像「おくのほそ道」への出発点-芭蕉庵跡と千住大橋(1)江東区常盤に芭蕉稲荷があります。芭蕉が1680年から住んだ草庵があった跡地であり、芭蕉の名は、この庵に植えられた芭蕉に由来します。「古池や 蛙飛びこむ 水のをと」の句を詠んだのもこの庵と言われています。また、おくのほそ道の出発点もこの庵でした。
  • お玉ヶ池種痘所跡近代医学の祖-伊東玄朴と種痘所千代田区岩本町にお玉ヶ池種痘所跡を示す碑があります。お玉ヶ池種痘所は、伊東玄朴らが私財を投じて作った施設です。天然痘の予防接種である種痘事業を中心に、江戸における蘭方医学発展の中心的な施設となりました。
  • 丸の内の地名の由来-大名小路からビジネス街への変遷丸の内の地名の由来は、江戸城内(丸の内)にあることに由来します。江戸時代、丸の内は大名屋敷が並び大名小路と呼ばれていました。明治に入り、三菱に払い下げられた大名小路は一丁倫敦と呼ばれるレンガ造りの町並に変わっていきます。
  • 勧進相撲発祥の碑江戸勧進相撲発祥の地-四谷笹寺四谷に笹寺(長善寺)というお寺があります。天正3年(1575年)に建てられた庵がその起源といわれ、江戸時代以前からある古いお寺です。 目次四谷笹寺の碑勧進相撲とは勧進相撲の石碑と横綱江戸時代の勧進相撲の歩み 四谷笹寺の碑…
  • 古典落語芝浜の舞台-本芝公園芝浜という有名な古典落語があります。芝浜の舞台、魚の行商を行う亭主が財布を拾う砂浜が港区の芝にありました。現在の本芝公園の辺りが芝浜にあたります。本芝公園内には亭主の仕事場であった雑魚場跡を示す案内板もあり、ここが落語の舞台芝浜であったことが推測できます。
  • 水道橋の由来-神田上水掛樋水道橋駅から御茶ノ水方面に外堀通りを歩くと、歩道わきに「神田上水掛樋跡」の石碑があります。「樋」は管のこと、「掛樋」は上空をわたすための管をさします。水道橋の地名はまさにこの掛樋に由来します。掛樋は江戸時代に作られた上水道、神田上水の水を江戸市中に通水するための水道管の橋でした。この掛樋が現在の水道橋の地名の由来です。
  • 月見名所の名残-高輪石垣高輪の地名は高台の縄手道(あぜ道)を意味する高縄手に由来します。 高縄手が転じて、高縄、高輪となったそうです。 以前は人家も少ない場所だったようですが、江戸時代には東海道を往来する人々や、風光明媚な行楽地として栄えたよう…
  • 江戸時代の上水場-玉川上水御改場跡新宿区四谷四丁目交差点のそばに玉川上水記念碑があります。江戸時代、ここに玉川上水御改場(水番屋)があったことにちなみます。 水番屋というのは、上水の水質、水量管理の役人のための詰所です。玉川上水は1654年、三代目家光の…
  • 九代目市川團十郎の大口屋曉雨(札差)蔵前の地名の由来-御米蔵と札差台東区に蔵前という地名があります。江戸時代の幕府の御米蔵がその地名の由来となっており、蔵前にあった御米蔵は1620年、和田倉あたりにあった御米蔵を移転して作られたものです。米蔵から武士の給料として払い出される米の受け取りを代行したのが札差です。札差たちは金融業にも手を広げ、江戸の粋を代表する存在となっていきます。
  • 肥後細川庭園江戸末期の下屋敷跡-肥後細川庭園文京区目白台の関口の近く、神田川沿いに、肥後細川庭園があります。肥後細川庭園は江戸時代末期、肥後細川藩の下屋敷の庭園でした。
  • 杉並区今川の地名の由来-今川氏真と観泉寺東京都杉並区に今川という地名があります。地名の由来は江戸時代、この地が今川家の知行地であったことに由来します。
  • 伊奈忠次、伊奈忠治墓所江戸の礎を築いた伊奈家-利根川東遷と内川廻し初代関東代官を務めた伊奈忠次の次男、伊奈忠治により、利根川東遷が進められました。忠治が始めた利根川東遷の事業は30年以上にも及びました。利根川東遷により、内川廻しという内陸の河川を経由した水路が確立し、江戸の発展に寄与しました。
  • 吉原遊女の無縁寺-浄閑寺と吉原遊女浄閑寺は近くの吉原遊女が多く葬られていることで知られています。吉原の外、山谷堀沿いに作られた日本堤の北端に位置する浄閑寺は吉原とも近いことから、多くの遊女が葬られました。浄閑寺に葬られた遊女は震災の犠牲者も合わせて、二万五千人ともいわれています。浄閑寺には寛保3年(1743年)以来の過去帳が残されていますが、そうしたことから、埋葬された遊女の身元は分かりません。
  • 誓教寺葛飾北斎の墓所誓教寺-北斎と江戸の引越し台東区元浅草に誓教寺というお寺があります。誓教寺には、「富嶽三六景」などの作品で知られる葛飾北斎の墓があります。北斎は30回以上の画号の変更や、93回にも及ぶ転居など、その奇行でも知られています。 目次墓石に刻まれる画号…
  • 高輪に残る門のあと-高輪大木戸高輪ゲートウェイ駅近くには江戸時代、高輪大木戸がありました。江戸時代には各町ごとに木戸が設けられ、自身番をおいて警護させていました。大木戸は各街道の江戸の入り口に当たる場所に設けられた門です。高輪大木戸は街道の中でも交通量が多かった東海道に設けられ、現在でもその石垣を見ることができます。
  • 平久橋波除碑高潮の脅威を今に伝える-平久橋波除碑江東区平久橋に波除碑という石碑があります。寛政3年(1791年)に発生した高潮によりこの辺りは甚大な被害がありました。そのため幕府は東西520m近くの土地を空地としてさらに被害が発生しないようにしました。その空地の東西に設置されたのが波除碑です。