edo→tokyoは2015年8月のオープン以来、東京に残る江戸時代の名残を多く紹介してきました。
複数の記事の中から一部を抜粋してご紹介します。
秋の七草、萩の名所-龍眼寺江東区の龍眼寺は、別名萩寺と呼ばれています。江戸時代から萩の名所として知られ、多くの人々に愛されていました。萩は万葉集にも詠われ、秋の七草の1つとされています。現在でも秋になると龍眼寺では萩を鑑賞することができます。
江戸時代の輪郭-首都高速2020年夏、1964年東京オリンピック以来、56年ぶり2回目の夏季オリンピックが東京で開催される予定です。オリンピックに向けて、競技場を始め、様々な設備、インフラが整備され東京の街も大きく変わることでしょう。 1964…
湊の地名の由来-江戸湊と江戸の発展中央区湊の地名の由来は江戸時代、全国から江戸への物資を積んだ船が多く集まり、大変な賑わいを見せた「江戸湊」にあります。家康により作られた運河や、舟入堀により江戸湊にはたくさんの物資や人が集まり、江戸の発展を支えました。維新後江戸湊は衰退しますが、東京港が整備され、東京の町の発展を支えています。
両国の地名の由来-両国橋と隅田川花火大会の起源両国の地名は隅田川にかけられた両国橋に由来します。両国橋の当時の正式な名前は大橋。武蔵野国、下総国の両国にかかる橋であったことから「両国橋」という俗称がありました。その後、元禄六年(1693年)、下流に新大橋が架橋されたときに両国橋が正式名称となりました。その後、貞享3年(1686年)には、両国橋東のエリアも武蔵野国に編成されたのですが、両国橋の名前はそのままに残り、両国、という地名の由来となりました。
御茶ノ水の地名の由来-作られた神田川御茶ノ水の地名の由来はまさに将軍用のお茶に用いるための湧き水があったことにあります。この湧き水は、江戸時代に人工的に作られた神田川の工事により湧き出したものと考えられます。
秋葉原の地名の由来–秋葉講と秋葉神社江戸時代、代表者が参拝の旅に出る「代参講」という仕組みがありました。秋葉山に参拝する為の集団を秋葉講と呼びます。秋葉原地名の由来も秋葉山に関係します。江戸時代火除地として空き地になっていたこの地にあった、火防の社を、江戸の人々は火防信仰で有名な秋葉大権現が祀られていると勘違い。秋葉大権現の原っぱ、「秋葉っ原」とよんだことが定着して、地名の由来となりました。
時代とともに姿を変えた-桜の名所御殿山御殿山の名前の由来は、江戸時代、この地に将軍の御殿が設けられたことにあります。御殿は江戸時代初期には鷹狩の際の休息所、茶会等に利用されました。その後桜の名所として知られるようになります。幕末には台場建造のための土取場となり、窪地が今も残されています。
時代を越えて受け継がれる名城-江戸城江戸城が現在の位置に作られたのは、長禄元年(1457年) のこと。太田道灌によって作られました。武蔵野台地の東端に位置し、舌状の谷に守られた自然の要塞であったこと、湧き水が得やすかったことからこの地が選ばれました。家康入城後は諸国の大名による天下普請により、大城塞へと生まれ変わります。
アシの原に作られた歓楽街-元吉原上記にあげたのは人形町付近の標高図です。 (国土地理院 レーザー測量 東京都区部中心部を一部トリミングして転載 http://www1.gsi.go.jp/geowww/Laser_HP/image/tokyo1(DEM…
四谷怪談の舞台-深川三角屋敷跡江東区深川に四谷怪談の舞台となった三角屋敷がありました。四谷怪談の作者、鶴屋南北は晩年、深川の町に住んでいました。江戸の喧騒から少し離れて、どこか浮世離れした雰囲気のある深川の町を鶴屋南北は魅力的に感じていたのかもしれません。
日本橋の名水-白木屋の井戸白木屋の井戸は、江戸有数の呉服店であった白木屋の、二代目大村彦太郎安全によって掘られました。大衆奉仕の白木屋の方針を表すように、井戸水は周辺住民に利用され、名水として今日まで知られています。
江戸発展の原点-羽村取水堰東京都羽村市を流れる多摩川に羽村取水堰があります。投げ渡し堰と呼ばれる可動堰と固定堰の2つを組み合わせた堰で、投げ渡し堰の部分を見ると、支柱の間に丸太を渡して、水をせき止めていることがわかります。投げ渡し堰は増水の際、堰が決壊することを防ぐために役立ちます。羽村取水堰の水門から先は玉川上水です。玉川上水は江戸に水を引くために作られた人工の水路です。羽村取水堰から四谷大木戸までその距離43㎞もあります。
銚子と江戸を結ぶ物流拠点-箱崎川行徳河岸首都高速向島線の経路には、江戸時代箱崎川という川が流れていました。蠣殻河岸、行徳河岸などの荷揚げ場が置かれ、江戸湊の一端を担っていました。行徳河岸の起こりは1632年、南葛西郡本行徳村の村民が土地を借り受け、江戸行徳間で物資の輸送を開始したことにあります。当時行徳は塩の一大生産地で、この塩を運ぶため小名木川、行徳新川の掘削を行い行徳河岸で荷揚げしていました。行徳河岸は利根川を経由し銚子ともつながっていました。
日本橋の由来-江戸時代から現在の日本橋日本橋の名前の由来は諸説あります。江戸時代に作られた時から各街道の中心であり、各国への行程がここから始まることや、日本国内中の人足が集まってかけられたことなど、日本の中心であることをうかがわせます。慶長8年に架橋された日本橋は火災などの焼失による架け替えを経て、明治44年に架けられた20代目が東京の象徴としてあり続けています。
ペリー来航の地-浦賀と与力中島三郎助浦賀は江戸時代を通して、港町として栄えました。ペリー来航時に投錨の地となったのも浦賀。ペリー艦隊との交渉は浦賀奉行所を通して行われました。浦賀奉行所与力、中島三郎助は交渉役として初めてペリー艦隊と接触した日本人の1人です。
江戸時代の別荘地-向島と榎本武揚幕末、明治にかけて活躍した榎本武揚。73歳で没するまでの3年間を向島の地で過ごしました。向島は江戸時代から観光地としてにぎわい、料理屋や別荘が立ち並んでいました。
紅葉狩りの名所-品川宿海晏寺品川区南品川に海晏寺という曹洞宗のお寺があります。海晏寺は紅葉狩りの名所として知られていました。海晏寺は品川宿にほど近く、品川宿には飯盛女と呼ばれる遊女が多くいました。つまり紅葉狩りに行く口実で、こうした遊郭へ遊びに行っていたようです。
杉並区今川の地名の由来-今川氏真と観泉寺東京都杉並区に今川という地名があります。地名の由来は江戸時代、この地が今川家の知行地であったことに由来します。
江戸の地名の由来-江戸前島デジタル標高地形図を見ると、今の日本橋から銀座、新橋あたりまで、周囲より標高が高いことがわかります。このあたりは江戸時代、江戸前島と呼ばれる半島でした。江戸前島の周辺、標高地形図で水色になっているあたりは海でした。江戸前島の西側、現在の日比谷公園あたりが当時の日比谷入江です。「江戸」という地名の由来も、この江戸前島、日比谷入江からきているという説があります。入江の戸、つまり海が陸地にいり込んだ場所である「江」に面した場所であるというのがこの説の江戸の由来です。
新宿の地名の由来-内藤新宿追分甲州街道に作られた宿場町、内藤新宿が現在の新宿の地名の由来です。もともと、甲州街道の最初の宿場は高井戸宿でした。しかし、日本橋から高井戸宿までの距離は四里、16キロほどありました。そのため日本橋から二里のこの辺りに内藤新宿という宿場が作られます。
江戸時代の塩の道-小名木川江東区、隅田川と荒川の間をほぼ一直線に横切る川が小名木川です。この小名木川は家康により作られた人工の運河です。小名木川は家康入城時、低地であったこの辺りで干潟前面の水路を確定するため、また小名木川以北の干拓地の排水路としての役割を果たしていたようです。もう一つ、大きな役割として江戸の町への物資輸送の水路としての役割がありました。小名木川掘削で特に着目されたのは塩の運搬でした。
五角形に見る台場跡-台場小現在の台場小学校がある所に、江戸時代、御殿山下台場が建設されました。当初予定されていた11基の台場建設が資金難により変更され、作られたのが御殿山下台場です。台場建設の費用は75万両。資金の一部は日本各地からの上納金があてられました。
砂州の先端に祀られた弁天跡-利田神社品川区にある利田神社は、江戸時代、目黒川河口の砂州に弁天堂が築かれたことがその起こりです。弁天堂は洲崎弁天と呼ばれ境内には江戸湾で捕獲された鯨の骨を埋めた鯨塚があります。江戸時代、紀州を中心に捕鯨が行われ、捕獲した鯨は骨に至るまで有効利用されました。
上野戦争を今に伝える-寛永寺黒門寛永寺は江戸幕府が開かれてから草創された新しい寺院です。開山の天海僧正は江戸城の鬼門に当たる上野を守るため、現在の上野公園の位置に寛永寺を創りました。幕末、寛永寺は彰義隊と新政府軍で行われた上野戦争の舞台となりました。荒川区の円通寺に移築された寛永寺の黒門には、当時の銃弾の跡を見ることが出来ます。
海を名前に残す公園-和田倉噴水公園東京駅から徒歩5分ほどのところにある和田倉噴水公園には昔和田倉門という江戸城の御門がありました。和田倉の「ワダ」は海を表す古い言葉です。その名の通り、徳川家康が江戸に入城した1590年、この辺りは日比谷入江と呼ばれ、海が入り込む場所でした。和田倉は海辺に作られた倉があったことに由来する名前です。
江戸時代の名残を残す-上野寛永寺と上野公園上野公園一帯は江戸時代、東叡山寛永寺というお寺がありました。江戸城の鬼門に当たる方角に作られた祈祷寺で、京都における比叡山延暦寺に倣って建立されました。現在でも上野戦争の傷跡が残る本坊表門など江戸時代の名残が残ります。
水道橋の由来-神田上水掛樋水道橋駅から御茶ノ水方面に外堀通りを歩くと、歩道わきに「神田上水掛樋跡」の石碑があります。「樋」は管のこと、「掛樋」は上空をわたすための管をさします。水道橋の地名はまさにこの掛樋に由来します。掛樋は江戸時代に作られた上水道、神田上水の水を江戸市中に通水するための水道管の橋でした。この掛樋が現在の水道橋の地名の由来です。
近代医学の祖-伊東玄朴と種痘所千代田区岩本町にお玉ヶ池種痘所跡を示す碑があります。お玉ヶ池種痘所は、伊東玄朴らが私財を投じて作った施設です。天然痘の予防接種である種痘事業を中心に、江戸における蘭方医学発展の中心的な施設となりました。
飲料水確保のためのダム湖-千鳥ヶ淵、牛ヶ淵千鳥ヶ淵、牛ヶ淵は家康が江戸に入城直後に人工的に作られたダム湖でした。台地面からの河川、湧水の流れをせき止め湖として、飲み水の確保を行いました。
江戸のブランド野菜-目黒のタケノコと江戸野菜目黒区碑文谷に「すずめのお宿緑地公園」という公園があります。江戸時代、この近辺には竹林が広がっており、タケノコの生産が行われていました。「目黒のタケノコ」はブランド野菜として江戸の人々に親しまれていました。
坂本龍馬が学んだ道場-桶町千葉道場北辰一刀流の開祖、千葉周作は、北辰一刀流を教える道場を構えます。これが玄武館です。北辰一刀流は一躍有名になり、道場の門人は6000名を超える大道場となりました。門人の増加に伴い作られたと言われているのが龍馬が学んだ、桶町千葉道場です。千葉周作の弟、千葉貞吉が師範代を務めました。玄武館、そして桶町千葉道場で学んだ門人には坂本龍馬をはじめ、清河八郎、山南敬助、山岡鉄舟などがいます。玄武館、桶町千葉道場が明治維新の原動力の一端を担いました。
板橋の地名の由来-中山道板橋と橋の変遷東京都板橋区、中山道と石神井川が交差する場所にかかる橋に「板橋」があります。板橋の地名は石神井川にかかる橋(板橋)に由来するもの、地形に由来するもの(イタは崖、河岸、ハシは端を表す)の所説があります。どの説がただしいか、はっきりしたことはわかっていませんが、板橋という地名は「義経記」など、鎌倉-室町時代に成立、書写された軍記物に登場していることから、南北朝時代には存在したと思われます。この板橋が、中山道1番目の宿場町にあり、さまざまな歴史を見続けてきた橋であることは間違いありません。































