edo→tokyoは2015年8月のオープン以来、東京に残る江戸時代の名残を多く紹介してきました。

複数の記事の中から一部を抜粋してご紹介します。

  • 恵比寿の地名の由来-日本の近代化を支えた三田用水跡恵比寿の地名はエビスビールを作っていた日本麦酒がこの地にあったことに由来します。江戸時代に作られた三田用水の水を利用するためこの地にビール工場が作られました。
  • 品川宿と攘夷-御殿山公使館焼き討ち事件品川宿に近い御殿山。桜の名所として知られたこの地は、幕末、台場築造のための土砂採石場となるなど時代のあおりを受けます。開国後、各国の公使館の建設予定地となり、イギリス公使館は完成間近の状態となりました。しかし、文久2年、長州藩志士たちにより、焼き討ちにあってしまいます。
  • 白金の清正公様-白金覚林寺と加藤清正港区白金台、桜田通りに清正公前(せいしょうこうまえ)、という交差点があります。この交差点名は近くにある覚林寺に由来します。清正が連れ帰った朝鮮の王子の一人が建立した寺が覚林寺で、清正と覚林寺は深いつながりがあります。清正は熱心な法華経の信仰者で、信長、そして秀吉と受け継いだ南無妙法蓮華経の旗を頂戴し、これを文禄・慶長の役にも用いています。
  • 船橋東照宮船橋の東照宮-船橋御殿跡と鷹狩船橋市に小さな「東照宮」があります。船橋には江戸時代初期、家康が東金方面で鷹狩を行う際に休憩・宿泊する御殿が作られました。東照宮はその跡地に建立されたものです。
  • 旧養生所の井戸-赤ひげ先生と小石川養生所小石川植物園内に、旧養生所の井戸があります。この井戸は江戸時代、この地にあった、小石川養生所で使われていたもの。この地には赤ひげ先生として知られる小川笙船の働きかけで作られた庶民のための診療所がありました。
  • 千鳥ヶ淵飲料水確保のためのダム湖-千鳥ヶ淵、牛ヶ淵千鳥ヶ淵、牛ヶ淵は家康が江戸に入城直後に人工的に作られたダム湖でした。台地面からの河川、湧水の流れをせき止め湖として、飲み水の確保を行いました。
  • 高輪に残る門のあと-高輪大木戸高輪ゲートウェイ駅近くには江戸時代、高輪大木戸がありました。江戸時代には各町ごとに木戸が設けられ、自身番をおいて警護させていました。大木戸は各街道の江戸の入り口に当たる場所に設けられた門です。高輪大木戸は街道の中でも交通量が多かった東海道に設けられ、現在でもその石垣を見ることができます。
  • 江戸の地名の由来-江戸前島デジタル標高地形図を見ると、今の日本橋から銀座、新橋あたりまで、周囲より標高が高いことがわかります。このあたりは江戸時代、江戸前島と呼ばれる半島でした。江戸前島の周辺、標高地形図で水色になっているあたりは海でした。江戸前島の西側、現在の日比谷公園あたりが当時の日比谷入江です。「江戸」という地名の由来も、この江戸前島、日比谷入江からきているという説があります。入江の戸、つまり海が陸地にいり込んだ場所である「江」に面した場所であるというのがこの説の江戸の由来です。
  • 浅草吉原への通い道-山谷堀待乳山のふもとから、吉原大門まで続く水路に山谷堀がありました。現在は山谷堀公園としてその形をとどめています。山谷堀を猪牙船と呼ばれる船で上がり、吉原へと向かう「山谷通い」は贅沢な遊びでした。この猪牙船は吉原通いにも利用されたため、別名を山谷船といいます。
  • 神田川と柳神田川沿いに造られた土塁-柳原土手神田川沿いには江戸時代、柳原土手という土手がありました。名前の由来は太田道灌の時代に鬼門を守るために柳を植えたとも、吉宗の時代に柳を植えさせたともいわれています。柳原土手は江戸城外郭の土塁としての意味合いや、神田川沿いの堤防としての意味合いがあったと考えられます。現在は取り壊され、柳原通りという通り名が残っています。
  • 最後のサムライ-山岡鉄舟と全生庵谷中に全生庵という臨済宗のお寺があります。明治13年(1860年)山岡鉄舟が、明治維新で国のために命を落とした殉難者のために建てた寺で、自身の墓所もそこにあります。慶応4年(1868年)、政府軍の江戸城攻撃が目前に迫った際、旧幕府軍の使者として大総督府(政府軍本部)の西郷隆盛に面会すべく駿府へと向かい、無血開城の一助となりました。
  • 馬喰横山駅の駅名由来表示版馬喰町の地名の由来-日本馬と博労馬喰町の地名は天正年間、幕府の馬労頭高木源兵衛、富田半七が居住し、この地にあった馬場を管理していたことに由来します。博労は、馬や牛の仲介人のことです。初めは博労町と記されていましたが、正保年間に現在の馬喰町と改められます。
  • 築地地名の由来-振袖火事と築地本願寺築地の土地は江戸時代の埋め立てによりできた土地です。地名の由来は「地を築く」、まさに埋め立てそのものを表しています。明暦の大火で焼失した本願寺再建の土地として、八丁堀の海上の土地が与えられます。佃島の信徒を中心に1万2700坪を造成し、そのまま拝領することとなります。築地の地名はまさにこの工事、埋め立てそのものを表します。
  • 堅川堤防江東、深川都市化の跡-竪川堅川は万治2年(1659年)に本所奉行の徳山五兵衛重政と山崎四郎左衛門重政が幕府の名を受け開通されました。竪川の名前の由来ですが、江戸城から見てタテ、つまり放射状に伸びた運河であることからです。竪川は明暦の大火後の再開発で掘削されました。目的としては低湿地帯の排水路の役割が主だったようです。ただ、1660年の天下普請で、神田川に舟運が通じることと時期を同じくするため、小名木川などの補助的な運河の役割も果たしたと思われます。
  • 肥後細川庭園江戸末期の下屋敷跡-肥後細川庭園文京区目白台の関口の近く、神田川沿いに、肥後細川庭園があります。肥後細川庭園は江戸時代末期、肥後細川藩の下屋敷の庭園でした。
  • 江戸時代の花見-桜の名所と桜餅娯楽が少ない江戸時代。梅やツツジなど四季折々の花を対象に花見が行われました。中でも桜の花見は今と変わらず人気でした。隅田川が桜の名所となったのは江戸時代が起源。現在にも続く桜餅も人気となり、墨堤は大変な賑わいだったようです。
  • 目黒の行人坂目黒行人坂-大円寺と江戸の大火目黒にある行人坂。その途中に大円寺があります。湯殿山の行者である大海法印が江戸時代初期に開いた道場がその始まりとされ、行人坂の名前も行人が多く住むようになったからと言われています。大円寺境内にある石仏群は江戸三大大火の一つ、行人坂の大火の犠牲者慰霊のために建立されました。
  • 信濃町の地名の由来-一行院と永井尚政慶長5年(1605年)四月、永井直勝の嫡男である尚政は従五位下信濃守の官位を与えられています。その後寛永3年(1626年)、直勝の死後、尚政が家督を継ぎ、永井信濃守を名乗ります。そのため、永井信濃守の下屋敷があったこの辺りが信濃町と呼ばれるようになりました。
  • 月見名所の名残-高輪石垣高輪の地名は高台の縄手道(あぜ道)を意味する高縄手に由来します。 高縄手が転じて、高縄、高輪となったそうです。 以前は人家も少ない場所だったようですが、江戸時代には東海道を往来する人々や、風光明媚な行楽地として栄えたよう…
  • 常磐橋現存の石造アーチ橋-常磐橋と常磐橋門跡日本橋本石町に常磐橋という橋があります。江戸時代、常磐橋門にかけられた橋で、江戸六口の1つに数えられていました。明治10年に改架された石造アーチ橋が現存しています。
  • 江戸時代の梅の名所−亀戸梅屋舗(うめやしき)歌川広重の江戸名所百景に亀戸梅屋舗があります。伊勢屋彦右衛門の別荘として作られた事が起こりで、300株ほどの梅が植えられていました。広重の絵に書かれている臥竜梅も有名でした。その後明治43年の水害により、梅が枯死したため閉園となってしまいます。向島百花園は佐原鞠塢により1804年に作られ、新梅屋舗と呼ばれ現在に続きます。
  • 小網町の町名板小網町の地名の由来-江戸の漁と小網町中央区に日本橋小網町(こあみちょう)という地名があります。町名の由来としてはっきりしたことは分かっていません。当地にあった、小網稲荷からその名を取ったという説もあります。ただ、江戸時代初期には入江が、それ以降も魚河岸が存在していたこともあり、江戸の漁業と関連した町名である可能性が高いと考えられます。
  • 大伝馬町、小伝馬町の地名の由来-三伝馬町の起こりと宝田神社大伝馬町、小伝馬町の地名の由来は江戸時代に伝馬役を請け負っていた名主がすんでいたことに由来します。江戸城の拡大に伴い、伝馬役が移転した地が大伝馬町、小伝馬町となりました。この地にある宝田神社は移転前の宝田村の名を残しています。
  • 江戸時代の塩の道-小名木川江東区、隅田川と荒川の間をほぼ一直線に横切る川が小名木川です。この小名木川は家康により作られた人工の運河です。小名木川は家康入城時、低地であったこの辺りで干潟前面の水路を確定するため、また小名木川以北の干拓地の排水路としての役割を果たしていたようです。もう一つ、大きな役割として江戸の町への物資輸送の水路としての役割がありました。小名木川掘削で特に着目されたのは塩の運搬でした。
  • 中野犬屋敷跡-生類憐みの令と綱吉徳川家5代将軍、綱吉。生類憐みの令で知られる綱吉は、犬公方などと揶揄され、悪政を行った暴君というイメージが付きまといます。生類憐みの令にある綱吉の思いとは何だったのでしょうか。
  • 両国の地名の由来-両国橋と隅田川花火大会の起源両国の地名は隅田川にかけられた両国橋に由来します。両国橋の当時の正式な名前は大橋。武蔵野国、下総国の両国にかかる橋であったことから「両国橋」という俗称がありました。その後、元禄六年(1693年)、下流に新大橋が架橋されたときに両国橋が正式名称となりました。その後、貞享3年(1686年)には、両国橋東のエリアも武蔵野国に編成されたのですが、両国橋の名前はそのままに残り、両国、という地名の由来となりました。
  • 日比谷の地名の由来-海の痕跡が残る日比谷公園日比谷の地名の由来は諸説あります。漁民が海苔をとり、魚をとらえるために海の中に立てる竹の小枝を「ひび」といいます。家康の入城のころ、このあたりは入り江が入り込んでいました。「ひび」がたつ入江(谷)であったことから日比谷という地名に転じた、というものがそれです。
  • 坂本龍馬が学んだ道場-桶町千葉道場北辰一刀流の開祖、千葉周作は、北辰一刀流を教える道場を構えます。これが玄武館です。北辰一刀流は一躍有名になり、道場の門人は6000名を超える大道場となりました。門人の増加に伴い作られたと言われているのが龍馬が学んだ、桶町千葉道場です。千葉周作の弟、千葉貞吉が師範代を務めました。玄武館、そして桶町千葉道場で学んだ門人には坂本龍馬をはじめ、清河八郎、山南敬助、山岡鉄舟などがいます。玄武館、桶町千葉道場が明治維新の原動力の一端を担いました。
  • 江戸時代の迷子案内板-一石橋と迷子しらせ石標一石橋の南詰に「満よひ子の志るべ」と書かれた石標があります。迷子しらせ石標(迷子石)と呼ばれるもので、江戸時代から現存している迷子石はこれが唯一のものとなります。江戸時代は迷子も多く、迷子を探す人、保護する人双方にとってこの迷子石が役に立っていました。迷子石は明治維新後も増えていきました。
  • 二条城東南隅櫓徳川家の繁栄と衰退を見つめた城-二条城の歴史二条城は家康によって慶長年間に築かれた城です。対朝廷の儀式などに利用され、寛永期にはさらなる改修がなされました。幕末には大政奉還の発表が行われたことで有名です。二条城内には、慶長期、寛永期の普請の名残を見ることができます。
  • 赤穂浪士討ち入りの舞台-吉良邸跡両国の回向院の側に本所松坂町公園という公園があります。ここは赤穂事件で有名な吉良上野介の上屋敷があった場所です。四十七士の討ち入りはまさにこの場所で行われました。8400㎡という広大な敷地でしたが、現在は屋敷の北側の一角が公園として残されています。
  • 下町深川発祥の地-深川神明宮江戸に入城し、都市開発を行う家康は適所に人材を起用しました。 家康の旧領である、駿河には江戸のような低湿地、河口の地形がなく、家来たちにはそのような土地を開発する技術がなかったといいます。 そこで目をつけたのは摂州人、つ…