edo→tokyoは2015年8月のオープン以来、東京に残る江戸時代の名残を多く紹介してきました。
複数の記事の中から一部を抜粋してご紹介します。
銚子と江戸を結ぶ物流拠点-箱崎川行徳河岸首都高速向島線の経路には、江戸時代箱崎川という川が流れていました。蠣殻河岸、行徳河岸などの荷揚げ場が置かれ、江戸湊の一端を担っていました。行徳河岸の起こりは1632年、南葛西郡本行徳村の村民が土地を借り受け、江戸行徳間で物資の輸送を開始したことにあります。当時行徳は塩の一大生産地で、この塩を運ぶため小名木川、行徳新川の掘削を行い行徳河岸で荷揚げしていました。行徳河岸は利根川を経由し銚子ともつながっていました。
丸の内の地名の由来-大名小路からビジネス街への変遷丸の内の地名の由来は、江戸城内(丸の内)にあることに由来します。江戸時代、丸の内は大名屋敷が並び大名小路と呼ばれていました。明治に入り、三菱に払い下げられた大名小路は一丁倫敦と呼ばれるレンガ造りの町並に変わっていきます。
近代医学の祖-伊東玄朴と種痘所千代田区岩本町にお玉ヶ池種痘所跡を示す碑があります。お玉ヶ池種痘所は、伊東玄朴らが私財を投じて作った施設です。天然痘の予防接種である種痘事業を中心に、江戸における蘭方医学発展の中心的な施設となりました。
赤坂の地名の由来-関東ローム層の赤土と坂赤坂の地名の由来は諸説あります。赤根山に登る坂「赤坂」からついたという説、赤土の坂「赤坂」からついたという説です。どちらも赤坂という坂の名前からついたということは共通しています。赤坂という名称の坂は現在残っていませんが、紀伊国坂のかつての名称が赤坂であったといわれています。関東ローム層の赤土でおおわれる東京には、赤坂の他にも「赤」がついた地名が多く残ります。
猿江の地名の由来-猿江神社と猿江恩賜公園江東区猿江の地名は、この地にある猿江神社に由来します。平安時代の康平年中に、源頼義の家臣であった猿藤太という武将の亡骸がこの地の入江で葬られたことから猿江、という地名が残されています。
江戸発展を見る二つの倉-和田倉、蔵前東京には「蔵」のつく地名がいくつかあります。浅草近くの「蔵前」。その名の通り、江戸時代、この地に米蔵があったことに由来します。幕末の1858年に出版された「安政改正御江戸大絵図」を見ると、蔵前のあたりに八本の舟入堀がある…
半蔵門の名前の由来-服部半蔵と伊賀同心地下鉄の路線名でもその名が知られる半蔵門ですが、この服部半蔵率いる伊賀同心組が警護を行ったことがその名の由来とされています。半蔵門は江戸城における有事の際の逃亡のための門とされています。半蔵門から城を脱出し、甲府へと向かう甲州街道を通り、甲府城へ逃れる手はずとなっていたといわれています。そのため、甲州街道沿いは警備強化のため、百人同心などを住まわせています。
鷹狩の鷹場跡-仲台院と加納甚内目次加納甚内が眠る仲台院江戸近郊に指定された鷹場綱差役、加納甚内鳥見役による鷹場の支配 加納甚内が眠る仲台院 江戸川区に仲台院という浄土宗のお寺があります。現地案内版では、應誉良道上人が天文8年(1539年)に阿弥陀如来…
開国を見守ったたまくす-日米和親条約と横浜横浜開港資料館の中庭に「たまくす」と呼ばれる木があります。ペリー上陸の絵図にも描かれているこの木は、日米和親条約の締結、その後の日米修好通商条約による開港を見続けてきました。開港以降発展していく横浜の町をたまくすは今も見続けています。
信濃町の地名の由来-一行院と永井尚政慶長5年(1605年)四月、永井直勝の嫡男である尚政は従五位下信濃守の官位を与えられています。その後寛永3年(1626年)、直勝の死後、尚政が家督を継ぎ、永井信濃守を名乗ります。そのため、永井信濃守の下屋敷があったこの辺りが信濃町と呼ばれるようになりました。
船堀の地名の由来-船堀新川川岸江戸川区に船堀、という地名があります。地名の由来は読んで字のごとく、船用の堀、があったことからで、新川(船堀川)とそこから別れる堀入りが由来となっています。
「おくのほそ道」への出発点-芭蕉庵跡と千住大橋(1)江東区常盤に芭蕉稲荷があります。芭蕉が1680年から住んだ草庵があった跡地であり、芭蕉の名は、この庵に植えられた芭蕉に由来します。「古池や 蛙飛びこむ 水のをと」の句を詠んだのもこの庵と言われています。また、おくのほそ道の出発点もこの庵でした。
新宿の地名の由来-内藤新宿追分甲州街道に作られた宿場町、内藤新宿が現在の新宿の地名の由来です。もともと、甲州街道の最初の宿場は高井戸宿でした。しかし、日本橋から高井戸宿までの距離は四里、16キロほどありました。そのため日本橋から二里のこの辺りに内藤新宿という宿場が作られます。
無双の力士-三分坂下報土寺と雷電爲右エ門三分坂下にある報土寺には雷電爲右エ門の墓所があります。当時の住職が同郷であったよしみから雷電は梵鐘を寄進。その墓所も報土寺にあります。
百人町の地名の由来-御家人の暮らし新宿区に百人町の地名の由来は、将軍直轄の軍団である、鉄砲百人組の同心(与力の下の身分の下級役人)たちの組屋敷があったことにあります。この地に百人組の組屋敷が作られ江戸の守りを固めていました。
蔵前の地名の由来-御米蔵と札差台東区に蔵前という地名があります。江戸時代の幕府の御米蔵がその地名の由来となっており、蔵前にあった御米蔵は1620年、和田倉あたりにあった御米蔵を移転して作られたものです。米蔵から武士の給料として払い出される米の受け取りを代行したのが札差です。札差たちは金融業にも手を広げ、江戸の粋を代表する存在となっていきます。
神田川沿いに造られた土塁-柳原土手神田川沿いには江戸時代、柳原土手という土手がありました。名前の由来は太田道灌の時代に鬼門を守るために柳を植えたとも、吉宗の時代に柳を植えさせたともいわれています。柳原土手は江戸城外郭の土塁としての意味合いや、神田川沿いの堤防としての意味合いがあったと考えられます。現在は取り壊され、柳原通りという通り名が残っています。
両国の地名の由来-両国橋と隅田川花火大会の起源両国の地名は隅田川にかけられた両国橋に由来します。両国橋の当時の正式な名前は大橋。武蔵野国、下総国の両国にかかる橋であったことから「両国橋」という俗称がありました。その後、元禄六年(1693年)、下流に新大橋が架橋されたときに両国橋が正式名称となりました。その後、貞享3年(1686年)には、両国橋東のエリアも武蔵野国に編成されたのですが、両国橋の名前はそのままに残り、両国、という地名の由来となりました。
江戸末期の下屋敷跡-肥後細川庭園文京区目白台の関口の近く、神田川沿いに、肥後細川庭園があります。肥後細川庭園は江戸時代末期、肥後細川藩の下屋敷の庭園でした。
江戸時代の花見-桜の名所と桜餅娯楽が少ない江戸時代。梅やツツジなど四季折々の花を対象に花見が行われました。中でも桜の花見は今と変わらず人気でした。隅田川が桜の名所となったのは江戸時代が起源。現在にも続く桜餅も人気となり、墨堤は大変な賑わいだったようです。
日本橋の名水-白木屋の井戸白木屋の井戸は、江戸有数の呉服店であった白木屋の、二代目大村彦太郎安全によって掘られました。大衆奉仕の白木屋の方針を表すように、井戸水は周辺住民に利用され、名水として今日まで知られています。
宝くじの起源-富くじと椙森神社現在の宝くじの起源は江戸で行われた富くじ(富興行)にあります。もともとは寺社の再建のための費用集めとして、幕府に公認の上行われたものでした。その後富くじは江戸で大流行しますが、天保の改革により禁止され終焉をむかえました。
玉川上水の遺構-余水吐跡四谷大木戸跡の近く、新宿御苑の脇に茂みがあります。この茂みは余水吐の流路の跡。江戸時代、玉川上水の余水を渋谷川に排水する役割をはたしていました。
ペリー来航の地-浦賀と与力中島三郎助浦賀は江戸時代を通して、港町として栄えました。ペリー来航時に投錨の地となったのも浦賀。ペリー艦隊との交渉は浦賀奉行所を通して行われました。浦賀奉行所与力、中島三郎助は交渉役として初めてペリー艦隊と接触した日本人の1人です。
五角形に見る台場跡-台場小現在の台場小学校がある所に、江戸時代、御殿山下台場が建設されました。当初予定されていた11基の台場建設が資金難により変更され、作られたのが御殿山下台場です。台場建設の費用は75万両。資金の一部は日本各地からの上納金があてられました。
江戸時代の水運の後-六間堀江戸に入城した家康は、土地の確保のため、低湿地の埋め立てを進めました。 しかし、ただ闇雲に土地を埋め立てたのではなく、水運のため、運河を埋め残す形で残しています。江東区を縦断する子名木川もその一つ。行徳で製塩された塩を江…
虎ノ門の地名の由来-江戸の町づくりと虎ノ門虎ノ門の地名の由来は江戸時代、外堀に作られた虎之御門にあります。虎之御門の名の由来は門が四神の1つ、白虎の方角に作られたことが理由とされています。物流、軍略上優れた土地に作られた江戸の町は日本の中心として長く発展していくこととなりました。
紅葉狩りの名所-品川宿海晏寺品川区南品川に海晏寺という曹洞宗のお寺があります。海晏寺は紅葉狩りの名所として知られていました。海晏寺は品川宿にほど近く、品川宿には飯盛女と呼ばれる遊女が多くいました。つまり紅葉狩りに行く口実で、こうした遊郭へ遊びに行っていたようです。
金座と日本銀行-江戸時代の貨幣制度日本橋にある、日本銀行本店の場所は江戸時代、貨幣の一つである金貨を作っていた金座がおかれていました。小判は製造、監督を行う後藤家の私企業により作られていました。関ヶ原の戦いに勝利した家康は、その後、統一的な貨幣制度を目指して、金貨、銀貨を発行します。金貨は大判、小判、一部金、銀貨は丁銀、豆板銀をそれぞれ作ります。金貨、銀貨、後に作られる銅貨は統一した通貨としてではなく、全く別の通貨として利用されました。
白金の清正公様-白金覚林寺と加藤清正港区白金台、桜田通りに清正公前(せいしょうこうまえ)、という交差点があります。この交差点名は近くにある覚林寺に由来します。清正が連れ帰った朝鮮の王子の一人が建立した寺が覚林寺で、清正と覚林寺は深いつながりがあります。清正は熱心な法華経の信仰者で、信長、そして秀吉と受け継いだ南無妙法蓮華経の旗を頂戴し、これを文禄・慶長の役にも用いています。
湊の地名の由来-江戸湊と江戸の発展中央区湊の地名の由来は江戸時代、全国から江戸への物資を積んだ船が多く集まり、大変な賑わいを見せた「江戸湊」にあります。家康により作られた運河や、舟入堀により江戸湊にはたくさんの物資や人が集まり、江戸の発展を支えました。維新後江戸湊は衰退しますが、東京港が整備され、東京の町の発展を支えています。
錦糸町の地名の由来-錦糸堀と南割下水錦糸町の地名の由来は江戸時代、この辺りにあった「錦糸堀」にあります。南割下水のことを錦糸堀と呼び、その由来になったという説があります。































