宝くじの起源-富くじと椙森神社

宝くじの起源-富くじと椙森神社

椙森(すぎのもり)神社と富くじ

中央区日本橋堀留町に椙森(すぎのもり)神社という神社があります。平安時代の創建といわれており、江戸時代には烏森神社、柳森神社と並び、江戸三森に数えられ、広く江戸市民の信仰を集めていました。コンクリート造りの社殿は昭和6年(1931年)、関東大震災で焼失した社殿に代わり再建されたものです。

椙森神社の境内には、「富塚」という珍しい碑があります。冨塚は大正8年(1919年)に建立されたものです。江戸時代、椙森神社で御免富(富くじ)の興行があったことを記念して建てられたもので、現在の冨塚は昭和29年(1954年)に再建されたものです。

椙森神社拝殿

現在の宝くじの原点、富くじ

富くじは現在の宝くじのようなものです。江戸時代、寺社の資金集めのために幕府に許可されて行われていたものを特に御免富といい、さまざまな寺社で行われるようになりました。

富くじの起こり

上述の通り、富くじは寺社が建物の修築や再建を行うための資金集めとして興行されたことがその起こりです。江戸時代初期は幕府の財政が豊かで、寺社の修築費用を出すことがあったようですが、時代がたつとともに、財政が厳しくなっていきました。そのため、寺社側も資金集めのためのイベントを企画する必要が出てきます。そこで生まれたのが富くじでした。

富くじは摂津の竜安寺というお寺で行われたのがその起こりといわれており、江戸では谷中感応寺(天王寺)で行われたのが起源といわれていますが、詳しいことはよくわかっていません。寺社の再建のため、幕府に許可されたものを御免富といいます。

富くじ開催から当選金受け取りの流れ

寺社が富くじを興行する場合、まず、幕府の許可が必要です。寺社奉行に願い出て、これが許可されると、日時、場所、発売する札の数、賞金額などをさらに願い出ます。ここまで認可されると開催決定、となります。

富くじの興行が決まると、寺社は富札と呼ばれる番号が書かれた札を市中で販売します。販売は寺社に限るという規定がありましたが、実際は茶店などでも「御富札取次仕候」と看板を出して代理店販売を行っていたようです。

富札1枚の値段は享保年間の頃で金一分、1両小判の4分の1の値段でした。当時の貨幣価値を推測することは難しいのですが、1両を16万円とすると4万円となかなかの高額。そのため、1枚の富札を数名で出し合って買うということが行われていたようです。

いよいよ当選発表当日。当選発表は基本的に興行主である寺社の境内でおこなわれます。ここで出てくるのが穴の開いた木箱。木箱の中には富札と同じ番号がかかれた木札が入っており、僧がそれを箱の穴からキリでつきます。刺さった木札の番号が当選番号になる、というわけです。

当選枚数と金額は興行によって異なりますが、1番高額当選金が100両、150両というケースが多かったようです。当選枚数は100枚といったところで、このキリでつく動作が100回繰り返されたことになります。この動作から富くじのことを富突とも言います。1番目についた当選番号が10両の当選金、以降10番ごとに1つの5両当選、その間は1両、といったような当選金だったようです。そして最後の100番目についた番号が1等、100両といった具合に当選発表がおこなわれていきました。

見事当選した人は次の興行が行われるまでに寺社に当選金を引き取りに行く必要があります。当選金がまるまるもらえるか、というと、残念ながらそうはいかなかったようです。弥次喜多の中にその様子がうかがい知れるやり取りがあります。

講中「ときに、お願ひがござります。当社御覧のとをり、大破につきまして、再建のため興行いたした富にござります。おあたりなされたお方へは、どなたへもお願い申して、百両の内十両、寄進におつき申して、お貰ひ申しますさかい、あなた方も、さやうになされて下さりませ」

弥次「ハイハイハイ」

講中「まだ外に、お願ひがござりますわいな。是もすべて、さやうにいたします。金子五両、せわやきどもへ、御祝儀といたして、おもらひ申したうござります」

北八「ハイハイハイ」

講中「まだひとつござりますわいな。今五両、あと札をお買いなされてくださりませ」

弥次「ハイハイハイ」

興津要著 江戸娯楽誌より

弥次喜多が騙されとられたわけではなく、1割を寺社に寄付、5分を世話人への祝儀、5分を次回の富札購入にというのが通例だったようです。こうして手元に当選金の8割が入ることになります。

富くじの流行と終焉

江戸庶民の娯楽として富くじ(富興行)は大流行します。寺社も本来の再建の費用捻出という側面から資金稼ぎのための興行を行うようになりました。

寛政の改革では、富くじの弊害を防ぐため、1寺社年3回まで、江戸、京都、大阪のみに富くじの開催を制限されました。しかしその後も流行を続け、地方でも富くじの開催が許可されるようになります。

地方の寺社では資金集めのため、都市の寺社の境内を借りて富興行を開催することもあり、椙森神社の他にも浅草寺、回向院、増上寺など広く江戸庶民に知られた場所で富くじが行われました。特に感応寺、目黒不動、湯島天神は大江戸の三富と呼ばれ非常に賑わっていたようです。このように江戸では頻繁に富興行がおこなわれ、毎日どこかの寺社で富くじが行われているというほど流行を見せました。

こうした富興行もあまりにも頻発したせいか、飽和状態になっていきます。富札の値段も2朱(1分の1/2)と値下がりをします。

富くじは水野忠邦の天保の改革により禁止され終焉をむかえました。もっとも寺社にとってもあまりにも富くじが広く行われるようになったせいで、当初ほどの収益は見込めなくなっており、それ以降江戸市中で富くじが行われることはありませんでした。

参考書籍

  • 中央区民文化財ガイド 日本橋編
  • 興津要著/江戸娯楽誌
  • 滝口正哉著/江戸の社会と御免富
  • 弘文堂/江戸学事典
  • 大江戸探検隊編著/大江戸暮らし
  • 竹内誠監修/一目でわかる江戸時代