品川の砂州に祀られた弁天堂の跡、利田(かがた)神社
品川区、
現在の利田神社の前身である洲崎弁天は目黒川によってできた砂州の先端にありました。
太田道灌の時代、この辺りは品川湊とよばれ、この砂州を中心に湊として栄えました。やがて太田道灌は江戸に移ります。 その後洲崎弁天周辺は埋め立て、開墾が進められ、開墾に携わった利田(かがた)氏にちなんで利田新地と呼ばれるようになりました。
神仏習合の影響で、寺院にも神社にも祀られた弁財天ですが、明治に入ると、洲崎弁天も利田神社と社号がつけられて、明確に神社になりました。また、祭神も弁財天から市杵島姫命へと改められています。
利田神社の鯨塚
利田神社の境内には鯨塚という小さな塚があります。江戸時代、品川沖に迷い込んだ鯨の骨を埋めた塚です。
寛政10年(1798年)5月、暴風雨のため品川沖に1頭の大鯨が迷い込みます。品川浦の漁師たちは船を出して、天王洲の内側に鯨を追い込み、ついに刺し殺し大鯨をとらえます。長さ9間1尺(約17m)の大鯨。品川沖はもとより、江戸市中にも噂は広がり大騒ぎ。品川には多数の見物客が詰め寄せることになりました。
ついには当時の将軍家斉の耳にも入ります。5月30日、 芝の御浜御殿(浜離宮)まで鯨を曳いていき、上覧をすることになります。
鯨は次第に腐敗が進みだしたため、解体されることとなりました。油を採取するなど利用され、残りの骨が洲崎弁天に埋められ、そこに鯨塚が築かれました。現在の鯨塚は寛政10年のものではなく、明治39年(1906年)に再築されたものが残ります。
江戸時代の捕鯨
寛政10年天王洲で捕獲された鯨は湾に迷い込んだ弱った鯨であり、日常的に江戸湾で捕鯨が行われたわけではないと考えられます。
しかし、日本では古く16世紀中期ごろから三河地方で、鉾を用いて鯨をついて捕獲する捕鯨が行われ始めていたようです。その後は江戸時代に入り、紀州熊野の太地浦で捕鯨が発達したといわれています。当初は10~20艘の船で追い込み、鉾を打ち込みとらえる漁法でしたが、次第に網を併用した方法へと発達しました。
捕鯨の方法は、まず20艘あまりの追船、勢子船と呼ばれる船が鯨の群れに近づき、漁場まで追い入れます。追い込んだ先に10数艘の網船が鯨の進路上に網を張り待ち構えます。
鯨が漁場に近づくと追船と持双(もっそう)船がこれを包囲。網に追い入れます。網に鯨がかかると追船から銛で突き、弱ったところを海中に潜りとどめを刺します。そして2艘の持双船が並行して、鯨を曳航して浜辺の解体場に向かいます。
捕鯨にかかわる船団はおよそ40艘。そのほか解体を行う漁夫などを含めると600人を超えます。また、鯨一頭をとらえられれば7浦が栄えるといわれるように、利益を見ても捕鯨は大きな産業でした。
江戸時代の人々はこうして得た鯨を非常に有効に利用します。肉は軟骨、臓物に至るまで調理法が確立しており食用として無駄なく消費。油も薬や燃料として、血は薬用として利用されます。また、ひげは裁縫道具、骨からも油を取り、歯は義歯として利用されるなどまさに骨まで捨てられることなく利用されました。
参考文献
- 菊池俊彦編/図譜江戸時代の技術
- 岡田章雄著/日本史小百科 動物
- 平野栄次著/品川区史跡散歩
- NHKデータ情報部編/江戸事情 産業編
- 稲垣史生監修/かわら版江戸の大変