江戸発展を見る二つの倉-和田倉、蔵前

江戸発展を見る二つの倉-和田倉、蔵前

東京には「蔵」のつく地名がいくつかあります。浅草近くの「蔵前」。その名の通り、江戸時代、この地に米蔵があったことに由来します。幕末の1858年に出版された「安政改正御江戸大絵図」を見ると、蔵前のあたりに八本の舟入堀があることがあることがわかります。舟から荷を下ろすための埠頭として使われました。
もう一つは「和田倉門」。皇居外苑の一角に地名が残りますがこの倉も米蔵を表します。この二つの蔵、江戸の拡張にともない場所を移された、移転前の「倉」と、移転後の「蔵」です。
江戸初期、日比谷入江の埋め立てが進む中、入江の最奥部に米倉が作られました。これがいまの和田倉の地名の由来です。和田は海の古語で、まさしく海(入江)のそばの倉庫を表します。
そんな和田倉から蔵前への米蔵移転は1620年に行われます。冒頭の「安政改正御江戸大絵図」にあるような規模になったのは明暦の大火(振り袖火事)のあとです。明暦の大火は、市街地の大半を焼き尽くす大変な被害を出しましたが、江戸の街づくりには大きな意味を持ちます。
一つは過密化した都市部の再開発。上記にあげるような米蔵や寺社の郊外への移転などが進められ都市部の区画整理が進みました。もう一つは埋め立て地の造成。火災の残土などを使い、沿岸部の埋め立てが進み都市が広がりを見せました。
都市の拡大と災害復旧からの再開発の流れを、蔵前、和田倉に見ることができます。