両国の地名の由来-両国橋と花火大会

両国の地名の由来-両国橋と花火大会

両国の地名の由来-両国橋と花火大会

両国の地名の由来

両国国技館や、江戸東京博物館などがあり、江戸時代からの文化、歴史を今に伝える両国。両国の地名は隅田川にかけられた両国橋に由来します。

両国橋の当時の正式な名前は大橋。武蔵野国、下総国の両国にかかる橋であったことから「両国橋」という俗称がありました。その後、元禄六年(1693年)、下流に新大橋が架橋されたときに(江戸時代の大事故を今に伝える-海福寺慰霊塔)、両国橋が正式名称となりました。その後、貞享3年(1686年)には、両国橋東のエリアも武蔵野国に編成されたのですが、両国橋の名前はそのままに残り、両国、という地名の由来となりました(石本馨著 大江戸橋ものがたり)。

両国橋が架けられた理由

江戸時代、隅田川には防衛上の理由から、千住大橋以外の架橋が認められていませんでした。そんな中、明暦3年(1657年)、明暦の大火(振袖火事)が江戸を襲います。死者7万人余り、江戸三大大火の一つとして今に伝わります。この明暦の大火の際に、隅田川に橋がなかったために逃げ遅れた多くの人々が犠牲となったことが、両国橋架橋のきっかけとなりました。また、江戸の都市の急速な発展に伴い、両国、深川エリアへの都市拡張が行われたこともこの両国橋架橋と関係しています。明暦の大火は築地など臨海部の埋め立て(築地地名の由来-振袖火事と築地本願寺)、両国、深川エリアの開発の契機となりました。両国橋東詰の回向院はこの大火の無縁仏を弔ったことが起こりとなります(両国の相撲起源の地-回向院)。

隅田川花火大会の起こり

両国橋といえば、現在の隅田川花火大会の起源となった両国花火で有名です。享保17年、全国的な凶作に見舞われ、100万人近い餓死者が出、さらに江戸ではこれらの大流行で多くの死者が出ました。八代将軍吉宗は翌年の享保18年(1733年)、旧暦の5月28日、悪疫退散祈願と犠牲者の霊を慰めるために両国橋付近で水神祭を川開きに合わせて行いました。この際の余興として打ち上げられた花火が年中行事となり、今に続く隅田川花火大会の起こりとなりました(両国の花火二五〇周年記念誌 花火/下町/隅田川)。

もともと川開きは水神を祀り、水難事故を防ぐ川祭りとしての意味合いが強かったのですが、江戸時代になると、3か月間にわたる納涼会の皮切りという娯楽的な意味合いが強くなっていきました(日本の年中行事百科3)。両国橋西詰は特に、火災の延焼防止のための広小路に、多くの茶屋や芝居小屋が立ち並ぶ娯楽スポットとなっていました。夏の始まりを告げる花火が合わさり、大変な賑わいだったようです。

江戸時代の花火大会の様子

当時の花火大会はどのようなものだったのでしょうか。当時の様子が垣間見える端唄が残ります。

√ 夏の涼みは両国の出船入船
屋形船上がる流星星下り
玉屋がとりもつ縁かいな

上がる流星の「流星」とは花火の種類のことです。今のような打ち上げ花火ではなく、竹筒に黒色火薬を詰めたものに点火をするもので、今のロケット花火ようなものでした(両国の花火二五〇周年記念誌 花火/下町/隅田川)。黒色火薬は硝石、硫黄、木炭を原料としており、色は燃焼温度が低いため、赤橙色しか出せなかったようです。

「玉屋がとりもつ縁かいな」、ですが、玉屋は言わずと知れた江戸時代の花火師一門です。鍵屋からのれん分けしたと伝えられていますが、諸説あるようです(泉谷玄作 日本の花火はなぜ世界一なのか?)。

両国の花火二五〇周年記念誌の中では、江戸時代の川開きの際に打ち上げられた花火の数が20基内外であったことが記されています。一夜にたったの20発ですから、多くの観客がずいぶん長い間、花火を待っていたのでしょう。玉屋が取り持つ縁、は次に上がる花火を心待ちにしているうちにできた縁なのかもしれません。

現在に続く両国花火

そんな、川開きの両国花火ですが、毎年行われていたわけではなく、特に幕末はほとんど行われていなかったようです。

しかし、明治に入ると盛んになり、第二次世界大戦の影響で中断されるまでは例年実施されていました。戦後、昭和23年に全国花火コンクールとして両国の空に花火が再び上がります。その後は昭和35年まで開催されますが、急速な都市化、また、交通量の増加に伴い、中断されます。

打ち上げる花火の号数規制や打ち上げ位置の変更を経て、昭和53年、現在の隅田川花火大会の形となり、今に続いています。