神田川沿いに造られた土塁-柳原土手

神田川沿いに造られた土塁-柳原土手

神田川沿いの堤防、柳原土手

千代田区岩本町に和泉橋という橋があります。神田川にかかる橋なのですが、江戸時代、この橋のあたり、さらに隅田川にかけて、神田川沿いの南側に柳原土手という土手が築かれていました。

「柳森神社記」によると、柳原土手の名前の由来は長禄2年(1458年)、太田道灌が江戸城の鬼門除けに柳を植えたことにあるとされています。その後、1657年に発生した明暦の大火で柳の木が燃え、そのままになっていたものを、享保期(1716年~1736年)に8代将軍吉宗の命により土手に柳が植えられ、江戸の名所となったといわれています。

神田川と江戸の発展

神田川は、1620年前後、第三次天下普請の際に作られた人口の川です。水道橋から御茶ノ水、昌平橋のあたりを流れる神田川は、海抜18メートルの本郷台地を縦断します。この台地を1.1キロにもわたって掘削したのですから、大変な工事であることが想像できます。もっとも、この第三次天下普請の際に掘削された神田川は充分な深さはなく、1660年に行われた万治の工事で舟が通行できるほどの川として完成となりました。

徳川家康入城の頃の江戸には、平川、谷端川、小石川の三本の川が合流し、江戸城近くの日比谷入江に流れ込んでいました。また、旧石神井川も不忍池から江戸橋付近へ流れてしました。町の中心部となるべき場所に4本の川が流れていたのです。これらの流れを東に変え、上記の4本の川をまとめて隅田川に流れ込むようにしたのが神田川です。

神田川が開削されたことにより、江戸の町はさらに土地開発が進みました。神田川の水運を利用することで水道橋、飯田橋、高田馬場の開発が進むきっかけとなりました。また、神田地区は日本橋川沿岸の河岸に加え、神田川沿いにできた河岸からの荷揚げ品も扱うことができるようになり、職人町として栄えていきました。

柳原土手の意味

柳原土手が作られた理由として以下の2つが考えられます。

  • 江戸城外郭の城壁の意味合い

神田川は江戸城の外郭に当たるもので、柳原土手の側にも浅草橋御門がありました。2008年に行われた発掘調査では大規模な石垣が発掘されており、外堀の土塁の意味合いがあったと考えられます。

  • 水害防止のための堤防としての意味合い

神田川の洪水に備えた堤防として作られたという考え方です。河川沿いの土手ということでそうした意味合いも考えられるのですが、上述の発掘調査の結果、すぐ近くの遺跡の地表面の方が土手と比べて高いことがわかっています。江戸初期のころは堤防としての意味合いがあったと考えられますが、低地の市街地が時代を経てかさ上げされているのに対して、柳原土手はかさ上げされておらず、堤防としての役割より、荷揚げ地、河岸としての機能が優先されていったと考えられます。

柳原土手発掘調査で発掘された石垣

柳原土手と今に続く柳原物

江戸時代が終わり、明治6年(1873年)、江戸の名所であった柳原土手も崩されてしまいます。しかし、その名前は「柳原通り」という通りの名前に現在も残っています。

柳原通り沿いは繊維、衣料品関係の会社が多く集まっており、毎年数回、ファミリーバザールという衣料品を扱うバザーが開かれます。この原型も江戸時代に形作られたとされています。

東神田ファミリーバザール

元文年間(1736年~1740年)頃、この辺りに古着を扱う床店(小さな露店)が並んでおり、大変な賑わいを見せていました。ここで扱われる古着は「柳原物(やなぎはらもの)」と呼ばれ江戸市中にその盛況が知れ渡っていたようです。土手がなくなった今もその名前と当時の様子がこの地に残っています。

柳原通り

参考文献

  • 鈴木理生著/江戸の川東京の川
  • 中央区教育委員会/柳原土手跡遺跡
  • 松田磐余著/江戸・東京地形学散歩
  • 田澤拓也著/江戸の名所
  • 鈴木謙一著/江戸城三十六見附を歩く
  • 千代田区/千代田まち事典