江戸の入り口、品川宿
新幹線の停車駅でもある、ターミナル駅として知られる品川。品川駅は実は品川区には無く、港区にあるのはよく知られた話です。
品川は江戸時代から東海道1番目の宿場町として栄えていました。江戸名所図会には以下のように紹介があります。
江府の喉口にして、東海道五十三駅の首(はじめ)なり。日本橋より二里。南北と分かつ。(東海寺の南に傍(そ)ひて、貴船の社の側を流るる川を堺とす。ある人云く、これすなはち品川と称するところの水流なり、と云々)。旅舎数百戸軒端を連ね、つねに賑はしく、往来の客絡繹(らくえき)として絶えず。
とあります。「流るる川」は目黒川です。現在と流路は異なりますが、この目黒川を宿場の中心とすると、江戸時代の品川の中心は現在の品川駅よりずいぶん南にあったことになります。現在でも北品川、南品川としてその名を残しています。ちなみに、北品川、南品川は品川区にあります。
風光明媚な海辺の宿場町、品川宿
江戸時代、日本橋を出発し、京都方面に向かう旅人は、戸塚、保土ヶ谷宿あたりまで一日で歩いたといいます。戸塚まで40キロ程度はありますから、当時の人々の健脚ぶりが伺えます。品川宿が単に通過点にすぎなかったかというとそうではありません。江戸からも近く、また海に面した風光明媚な宿場町でしたので大変栄えたといいます。本陣が1つ、脇本陣が2つ、旅籠が93軒が軒を連ねていました(今井金吾著 今昔東海道独案内、原著は東海道宿村大概帳)。
旧東海道である北品川商店街から、台場方面を望むと、わずかに下り坂になっていることがわかります。この道が、海沿いの宿場町であったことの名残です。また、旧東海道沿いの、品海公園という小さな公園のそばにも海辺の名残が残ります。下の写真にあるような石垣がわずかに残っています。海水にあらわれた跡もあり、まさにこの辺りが波打ち際であったことが想像できます。