江戸の礎を築いた伊奈家-利根川東遷と内川廻し

江戸の礎を築いた伊奈家-利根川東遷と内川廻し

伊奈忠次と伊奈忠治の墓所、勝願寺(しょうがんじ)

中山道の宿場の一つである鴻巣宿。この宿場に勝願寺というお寺があります。浄土宗関東十八檀林の内の1つで天正年間(1573年~1591年)に惣誉清巌(そうよせいがん)により中興されます。ちなみに檀林とは僧侶の養成機関の事です。惣誉清巌の弟子の円誉不残は家康とのかかわりもあり、勝願寺は幕府の厚い保護を受け栄えます。

勝願寺山門

その勝願寺の境内に伊奈忠次、伊奈忠治の2名の墓所があります。

伊奈家と関東代官

伊奈家はもともと三河武士でした。忠次の父忠家は家康に従えていましたが、永禄6年(1563年)、三河の一向一揆の際に家康に背いたため、三河を去っています。その後長篠の戦いで徳川方につき、その功績により家康の長男、信康につけられました。父忠家と忠次は、信康の切腹後再び浪人となりますが、その後忠次は帰参を許され、力を発揮していくことになります。

天正18年(1590年)、家康が江戸に入府すると、直轄領の設定と家臣への知行地割り当てを命じます。この総奉行が榊原康政で、補佐役として伊奈忠次、青山忠成があてられました。忠次は手腕を発揮し、基本的な構想をほとんど一人でまとめ上げたとされています。

その後伊奈忠次は代官頭に任じられ、関東の農政全般を任されます。伊奈忠次の優れた土木技術や、検地方法、税収方法は「伊奈流」と呼ばれ、伊奈家は広く知られていきます。

伊奈忠次の長男、そしてその子の死去により、伊奈忠次の次男、伊奈忠治が家督を継ぎます。伊奈忠治は3代目関東代官に任命され、関東における幕府の直轄領の民政、また、江戸の大土木事業を担当していくこととなります。

伊奈忠治と利根川東遷

忠治の関東代官としての任期は、元和4年(1618年)から承応2年(1653)の35年と長期に及ぶものでした。忠治が手掛けた事業として有名なものが利根川の東遷です。

家康が入府したころの江戸は、利根川、荒川、太日川(ひとひがわ、現在の荒川)など、大きな川が流れ込む場所でした。縄文海進の頃の沖積層が広がり、勾配が緩やかな関東平野に河川が流れていたので、大きく蛇行していたり、増水すると河川の流路が変わるなど、都市を築くには不向きな土地でした。灌漑、治水事業は伊奈忠次の頃から行われており、忠次の次男であった忠治は、忠次の優れた土木技術を若いころから学んでいました。

元和7年(1621年)、利根川東遷の第一段階として、新川、赤堀川の開削が行われます。もっとも、忠次の時代の東遷により、今まで大川(現在の隅田川)に流れ込んでいた利根川は太日川に合流されていましたが、それをさらに東遷させ、銚子まで流れるようにする事業でした。この事業は幾たびも失敗をくりかえし、承応3年(1654年)、ようやく利根川は現在のように、銚子へ流路を変えました。

利根川東遷と内川廻し(奥川廻し)

忠治による利根川東遷は治水という意味合いよりも、水運のための水路を確保するため、という目的が大きかったと言われています。日光東照宮の造営のため、上方から装飾用の建築資材を送る必要が出てくると、旧利根川など河川を使った航路が注目されました。これが内川廻し(奥川廻し)という内陸の河川を経由して日光方面に物資を運ぶ航路の原点となったとされています。

東北から物資を輸送する際、外洋経由のコースですと、鹿島灘、外房半島から伊豆下田に行き、そこで風を待ち、江戸に至るというルートであったようです。日数の読めないこの外洋コースに比べ、内川廻しですと自然の影響が少なく輸送が可能です。そのため、利根川を銚子沖に付け替え、水路を作ることが重要となりました。

こうして利根川の東遷により確立した内川廻しにより、東北地方の米、建材、銚子の物資など江戸の発展に不可欠なものが安定して送られるようになります。江戸の発展は伊奈家の利根川東遷によって支えられました。

関宿利根川の分岐点

参考文献

  • 村上直/著 江戸幕府の政治と人物
  • 鴻巣市教育委員会/編 鴻巣の文化財 第7号 中山道鴻巣宿と間の宿吹上
  • 新人物往来社/編  大江戸役人役職読本 時代小説がもっと面白くなる!
  • 図説家康の江戸 江戸開府四百年 別冊歴史読本 22
  • 岡野友彦/著 江戸東京ライブラリー 9 家康はなぜ江戸を選んだか
  • 難波匡甫/著 江戸東京を支えた舟運の路 内川廻しの記憶を探る 水と「まち」の物語
  • 鈴木理生/著 幻の江戸百年 ちくまライブラリー 57
  • 鈴木理生/著 江戸の川・東京の川