有楽町の地名の由来-織田有楽斎と茶

有楽町の地名の由来-織田有楽斎と茶

有楽町の地名の由来-織田有楽斎と茶

有楽町の地名の由来

有楽町、という地名の由来には所説ありますが、説の1つとして、織田信長の弟、織田長益の号「有楽斎」にあるというものがあります。

慶長年間(1596年~1615年)に織田有楽斎の屋敷があり、その後寛永年間(1624年~1644年)には空き地となっていたところを人々が「有楽の原、有楽原」と呼んでいたことに由来します(竹内誠編 東京の地名由来辞典)。明治五年、有楽町という地名が誕生しました。

有楽町の歴史

有楽町の地名の由来とされている有楽斎の屋敷がどこにあったかは定かではありませんが、さまざまな文献から有楽町エリアの歴史を見ることができます。和田倉公園の発掘調査等、付近の発掘調査で明らかになっている通り、現在の日比谷公園から和田倉公園のあたりは入江(日比谷入江)が広がっていました。

文正二年(1467年)銘の銅鐘が大手町で、貞和三年(1347年)銘の板碑が有楽町で出土されており、中世ごろ有楽町は陸地であることが分かっています。有楽町あたりは日比谷入江外側に伸びる尾根(江戸前島)だったことがわかります(江戸の地名の由来-江戸前島)。

家康入城後、入江の埋め立てが進められ、この辺りは大名屋敷となります。宝永四年(1707年)、大名屋敷の一つである堀家屋敷跡に奉行所が移転され、南町奉行所として機能します。

明治に入ると、新政府による江戸鎮台府設置により、南町奉行所が改変され、南市政裁判所として機能します。その後東京府が設置され、市政裁判所も廃止されました。

その後は陸軍練兵場、演芸場有楽座等を経て、現在に至ります(東京都千代田区 有楽町二丁目遺跡)。

茶室「如庵」に見る有楽斎

有楽町の地名の由来とされる織田有楽斎はどのような人物だったのでしょうか。その人となりが垣間見えるものが愛知県犬山市、有楽苑にあります。

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有楽苑にある茶室「如庵」です。如庵は京都建仁寺に作られたものです。その後明治になり東京三井家に移り、大磯の別邸を経て、犬山の地に移築されました。如庵の室内を見てまず目につくのは茶道口から客座の間の斜めにつけられた壁です。(http://www.m-inuyama-h.co.jp/urakuen/joan/images/img_gallery_05.jpg)

「筋違ノ囲」と呼ばれ、客座へスムーズに給仕するための実に合理的な作りの一つです。

織田有楽斎は信長が本能寺の変で倒れた後、秀吉に従え、摂津国の味舌という地に三千石の所領を与えられます。その後関ヶ原の合戦では家康方につき、大和国山辺郡に三万石の所領を得ることになります。

関ヶ原合戦後は淀殿の叔父にあたる立場から大阪城に入り秀頼を補佐することになりますが、家康へ逐一大阪の様子を報告したとされています。対立を深める秀頼と家康の間に立ち、あくまで家康への抵抗を反対し、和解のあっせんに努めます。

しかし、有楽斎の気持ちに反し大坂夏の陣が勃発します。夏の陣が起こると自身は大阪城から退去して、所領を息子に分け与え、隠居し専ら茶道にたしなむことになります(井上辰夫著 茶道をめぐる歴史散歩)。

晩年に有楽斎により作られた茶室が前述の如庵です。有楽斎は「それ茶の湯は客をもてなす道理を本意とする也」(茶道織有伝)と述べています。有楽斎の考えや、困難な時代にあっても、的確に時流を見つめ生き抜いた合理性が如庵に垣間見えるのかもしれません。

困難な時代を生き抜いた有楽斎の名が、現在の東京に残されています。