海の痕跡が残る-日比谷公園

海の痕跡が残る-日比谷公園

江戸時代の入江、日比谷入江

東京のど真ん中にある、日比谷公園。
この公園ができた経緯に、江戸の地形も多少関係しています。

官庁集中計画においては日比谷ヶ原にも官庁の建設が予定されたが、元々入江だったため地盤が悪く、大掛かりな建物の建設には不向きと判断された。同年11月、内務省東京市区改正委員会において古市公威・芳野世経により公園地としての利用が提案され、翌年には日比谷公園を第一とする第四十九までの公園の整備を盛り込んだ市区改正が告示された。
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徳川家康が江戸に入場した1590年、この辺りは日比谷入江と呼ばれ、海が入り込む場所でした。日比谷入江の東側(現在の銀座)には入江を形成していた、江戸前島という半島が突き出していました(江戸の地名の由来-江戸前島)。

日比谷の地名の由来にも諸説ありますが、この入江に関係するものがあります。この辺りは当時漁民がすむ村落でした。漁民が海苔をとり、魚をとらえるために海の中に立てる竹の小枝のことを「ひび」と言います。「ひび」がたつ入江(谷)であったことから日比谷という地名に転じた、というものがそれです(竹内誠編 東京の地名由来辞典)。

このように日比谷一帯は昔入江であり、その入江を埋めた軟弱地盤であるため、後々の都市計画にも影響を与えることにりました。

家康による日比谷入江の埋立

日比谷入江が埋め立てられたのは家康による江戸開府の頃です。当時の江戸は湿地帯が広がり、大都市として繁栄していくには不適切な場所でした。家康は本郷台下の小石川の低湿地の開拓等、湿地帯を整備を行い、街づくりを行っていきます。そして、文禄元年(1592年)、日比谷入江の埋立が実施されます。埋立には西の丸(現在の皇居あたり)の築城工事で出た廃土を用いています。

埋め立てられた面積は三十余町(1町がおよそ10000 m2)であったとされており、非常に広い面積が埋め立てられています。埋立によりできた土地には内町(内の町屋敷)と呼ばれる町が開かれました。内町は武家屋敷の消費を賄うためにその近くに成立する町のことで、幕府も積極的に内町を奨励し、江戸の町の発展に貢献したようです(東京百年史 第一巻)。

日比谷公園に見られた地盤沈下

2011年、東日本大震災、東京でも震度5の揺れに襲われました。
震災発生後、日比谷公園近くを通ったのですが、多少の地盤沈下と思われる段差を見つけました。
歴史の名残がこんなところにも出てしまったのかもしれません。

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