江戸時代から今に残る津波警告の碑
江東区深川に平久橋、という橋があります。その橋すぐそばに「津波警告の碑」と書かれた石碑を見ることができます。
「津波警告の碑」は後年案内のために建てたもので、実際の碑はすぐそばにある高さ60センチほどの小さな石碑です。波除碑(なみよけのひ)といわれるもので、江戸時代の建立当時は6尺(180センチほど)であったそうで、地震や戦災、風雨による損傷で、現在の姿になっています。
波除碑が建てられたわけ
平久橋から600mほど東に向かって歩くと、洲崎神社があります。洲崎神社境内にも波除碑が残されています。(風光明媚な海辺の神社-洲崎弁天)
こちらも経年により読み解くことは困難ですが、以下のように背面に記されていました。
此所寛政三年波あれの時流れ人死するもの少なからず、此後高なみ(波)の変はかり難く流失の難なしといふべからず、是によりて西は入船町を限り、東は吉祥寺前に至るまで、凡長弐百八十五間の所家居とり払ひ、空地になしおかるもの也
寛政六年甲寅十二月日
高波が起こり、この地で被害が甚大であったため、今後については東西285間(約518m)の間を空地とするという旨が記されています。三省堂の江戸東京学事典によると、碑に書かれている寛政3年(1791年)の9年前、天明2年(1782年)8月に津波があり、洲崎神社の拝殿などが倒れ、溺死者が出ています。その後寛政3年には8月、そして石碑に書かれた9月と続けて津波、高潮の被害が出ています。
こうした被害を重く見た幕府は、洲崎神社から平久橋の間に碑を建て、その間を空地としました。おそらく空地の領域を示したものとしての意味合いが強いかと思いますが、津波、高潮の被害を後世に伝える碑として平久橋と洲崎神社の波除碑は現在に残っています。
(1832年広重の東都名所に描かれた洲崎弁天と空地)
江戸時代以降に江戸、東京で発生した津波
上記の通り高潮や高波と、地震等の海底変動による津波が混同されているイメージがありますが、「山本純美著/江戸・東京の地震と火事」によると、江戸時代以降、以下のように少なくとも7回の津波があったとしています。
延宝8年(1680) |
寛保2年(1742) |
寛政3年(1791) |
文政6年(1823) |
安政3年(1856) |
明治30年(1897) |
大正6年(1917) |
波除碑は、地震による津波が起こることを警告するものに直結はしないかもしれませんが、東京が低湿地帯に作られた町であり、水害にあっていることを伝えています。想定外といわれる災害に対処するためには江戸の人々が残したメッセージを読み解くことも有用かもしれません。
(洲崎神社境内から平久場所方面を見る)
参考文献
- 三省堂/江戸東京学事典
- 荒川秀俊・宇佐美龍夫著/日本史小百科 災害
- 山本純美著/江戸・東京の地震と火事
- 谷川彰英著/地名に隠された「東京津波」
- 保立道久・成田龍一監修/日本列島 地震の2000年史
- 北原糸子著/日本震災史
- 稲垣史生監修/江戸の大変
- 社団法人日本損害保険協会発行/災害絵図集