鉄砲百人組がいた町、百人町
新宿区に百人町という地名があります。地名の由来は将軍直轄の軍団である、鉄砲百人組の同心(与力の下の身分の下級役人)たちの組屋敷があったことにあります。江戸時代の御家人(徳川将軍家の武士で、将軍にお目見えする権利のない武士。お目見えできる武士が旗本。)は役職単位で土地(大縄地)を与えられていました。百人町は鉄砲百人組のうちの一つ、伊賀組の大縄地(組織単位で拝領された敷地)でした。山手台地と地続きになっている城の西側は幕府にとって弱点だったようです。甲州街道にそって外堀内の番町には旗本屋敷、そのさらに外側に百人組などの組屋敷が作られ江戸の守りを固めていました。百人町が現在の場所に位置するのはそのためです。
百人町には皆中(かいちゅう)神社という神社があります。皆中(かいちゅう)は「みなあたる」という意味があります。百人組の1人が稲荷に参拝したところ射撃が上達し、百発百中の腕前になりました。その評判は百人組内に広まり、稲荷は皆中(かいちゅう)神社として世間に知られるようになります。現在でも金運アップや、宝くじ、賭け事など、皆中にちなんだパワースポットとして知られています。
百人組の名残は現在の地割にも見られます。地図を見ると新大久保駅の辺りは細い路地に囲まれた南北に細長い地割が続いていることがわかります。百人組組屋敷の敷地が間口10間(18メートル)に対し、奥行きが200間(360メートル)と細長いものでした(追川吉生著 江戸の成り立ち2)。この敷地の名残が今に続いているため、このような南北に細長い地割となっています。
この6000㎡を超える百人組大縄地(組織単位で拝領された敷地)ですが、駐屯地としての意味合いが強く、射撃場なども備えていました。実際に生活の場となっていた建物は狭いもので、残りはほとんどが空き地だったようです。
下級武士の暮らし
百人町の大縄地跡の発掘調査でこの空き地の利用方法が明らかになっています。
発掘されたのは花壇跡。大久保はつつじの名所として江戸名所図会にも描かれていますが、アルバイトとして、つつじの栽培を行っていたようです。
戦もなくなり、平和になった江戸では、仕事はあまりないが、時間がある武士がかなりいたようです。とはいえ武士は武士、それなりの体裁を整えたり、家臣の生活もあり、お金が必要でした。そこで御家人たちはこうしたアルバイトをして、少ない給料をまかなっていたようです。
百人組は甲賀組、根来組、伊賀組、二十五騎組の四組がありましたが、彼らの例をとっても実に様々なアルバイトをおこなっています。
甲賀組が青山で傘張り、伊賀組のつつじ栽培、根来組が牛込で提灯など様々なものを作っていました。
それ以外で有名なのは御徒組です。
御徒組が作っていたものは金魚や朝顔。入谷の朝顔市の起源はこの御徒組にあります。
百人組の平時の仕事は江戸城大手三之門などの警備でしたが、御徒組は、将軍外出時などの道路警備が仕事です。役職は違いますが、ともに御家人でした。
ちなみに御徒町の駅名の由来はこの御徒組の組屋敷があったことからきています。御徒組は全部で30組あり、下谷、本所、深川などに組屋敷がありました。これらはすべて御徒組の屋敷町であることを意味する、御徒町と呼ばれていましたが、下谷の御徒町のみが駅名として残っています。
東京に残された江戸時代に由来する地名
この記事で紹介した以外にも、東京には江戸時代に由来する地名が多く残されています。