幕末の韮山代官、江川太郎左衛門終焉の地
墨田区亀沢に江川太郎左衛門終焉の地の案内板があります。この場所には幕末期において伊豆代官を務めた江川太郎左衛門の江戸屋敷がありました。太郎左衛門の名は代々世襲で、この地で生涯を終えたのは江川家36代の江川太郎左衛門英龍です。
江川太郎左衛門の生涯
36代、江川太郎左衛門(英龍)は、享和元年(1801年)、伊豆国田方郡の韮山屋敷に誕生します。幼名を邦次郎といい、父江川英毅の次男として幼少期を過ごします。馬術、剣術などはもとより、絵画等広く修行をつんだようです。
邦次郎が生まれた享和年間はロシアをはじめとする多くの外国船が日本近海にも出没するようになっており、伊豆半島一帯を統治している韮山奉行所も当然、海防の意識が高くなっていました。そうしたこともあってか邦次郎の修行は砲術、測量術などにも及んだようです。
邦次郎に転機が訪れたのは文政4年(1821年)、兄の英虎の死去により、父英毅の跡取りとなることになります。文政7年(1824)年、代官見習として正式に跡取りとなり、以後11年に及び、代官としての職務を学んでいくこととなりました。
天保5年(1834年)、父英毅の死去により、翌天保6年(1835年)、35歳にして正式に韮山代官江川太郎左衛門となります。 その間も日に日に外国からの圧力は高まっており、太郎左衛門も蘭学、砲学などを学びます。こうした修行を通じて太郎左衛門は、洋式軍艦整備、大砲の重要性や、武士にとどまらない農兵の募集による海防など、後の明治政府の政策にもつながる提案をしていくことになります。
また、佐久間象山、桂小五郎、大山巌など多くの門人たちに高島流洋式砲術の指導を行い、明治の礎を築くこととなりました。
ジョン万次郎と江川太郎左衛門
江川太郎左衛門の終焉の地となった江戸屋敷は、ジョン万次郎が一時住まいとした土地でもあります。アメリカ滞在中に身に着けた知識を生かすため江戸に召し出されたジョン万次郎は太郎左衛門の配下となります。そのことから、太郎左衛門の江戸屋敷の長屋に居住することとなりました。
ジョン万次郎の生涯
万次郎(ジョン万次郎)は、文政10年(1827年)、土佐の国幡多郡中の浜という漁村で生まれたとされています。万次郎15歳の正月、伝蔵という漁師が船長を務める漁船にやとわれ漁に出ます。乗組員は伝蔵、重助、寅右衛門、五右衛門、それに万次郎の5人。漁を続ける中、風が強くなり5人を乗せた船は漂流してしまいます。
12日後のこと、やっとのことで島影を発見します。現在の鳥島でした。鳥島はアホウドリのみがすむ無人島で、5人はアホウドリの干し肉や、岩のくぼみにたまった水で命をつなぎます。
島での生活が半年ほどたったころ、ホイットフィールドが船長を務める、アメリカの捕鯨船を発見。万次郎たちはこの船に乗せられ、6か月の航海ののち、オアフ島、ホノルルにやってきます。ホイットフィールドがホノルルから本国へと帰る際、万次郎を連れていき、教育を施すことを願い出ます。万次郎は見知らぬ地への興味から、アメリカ行きを決意しました。
その後、ホイットフィールドの手厚い好意により、現地の学校で学び読み書きはもとより、航海術、測量術などを学び、西洋の文明を直に吸収していきます。捕鯨漁や、金鉱堀として働いた後、ホノルルに残ったかつての仲間とともに日本への帰国を果たします。
帰国後、ペリー来航により、アメリカの事情に詳しい万次郎が幕府に召し出され、江川太郎左衛門と出会うこととなります。万次郎はアメリカで学んだ航海術は捕鯨術などを伝え、日本の近代化に大きな貢献をしていくこととなります。日本近代化の礎となった江川太郎左衛門とジョン万次郎の名残がこの地に残されています。
参考文献
- 小島惟孝著/墨田区史跡散歩
- 松島駿二郎著/鎖国をはみ出た漂流者
- 三枝博音著/技術家評伝
- 歴史教育者協議会編/人物でたどる日本の歴史
- 笠原一男編/物語日本の歴史
- 加来耕三著/評伝江川太郎左衛門