江戸時代の堀にかかる橋-竜閑橋

江戸時代の堀にかかる橋-竜閑橋

江戸時代の堀にかかる橋-竜閑橋

残された竜閑橋

竜閑橋という交差点が、千代田区、中央区の境にあります。竜閑橋はかつてここを流れていた、竜閑川にかかる橋でした。現在、竜閑川は埋め立てられ、竜閑橋もその役目を終えましたが、交差点近くの広場に一部が保存されています。

保存されているものは大正15年(1926年)3月にかけ替えられてた鉄筋コンクリートのトラス橋で、鉄筋コンクリートの橋としては日本最初のものです(現地案内板による)。

竜閑川の起こり

竜閑川は自然河川ではなく、人口の河川、堀です。江戸時代に掘られたもので、当時は神田堀、という名前でした。

神田堀が開鑿されたのは明暦3年(1657年)の大火(振袖火事)の直後、または元禄4年(1691年)と言われています。明暦3年説の根拠としては、明暦の大火について書かれた「後見草」という書物にある以下の記述です。

鎌倉河岸御堀より馬喰町西の方迄、白銀町片側、北の方町屋御除被成、塩入小船通り申候程、長八九町、浜町堀へ掘抜出来、此堀土を以て、長二五間の新土手、火除に被仰付

(中央区の文化財(三)橋梁)

江戸名所図会には神田堀が元禄4年の掘割、とあり、また、「御府内沿革図書」にも元禄4年の開鑿となっています。多少の差はありますが、竜閑川が神田堀として、江戸時代に創設されたものであることは確かです。

江戸時代の竜閑川

前述の後見草にもあるように、竜閑川の元となった神田堀は日本橋川にあった、鎌倉河岸の東端から、馬喰町まで東北方向に掘られた下水道でした(下図①の流路)。

その後、江戸時代初期からあった、浜町の入堀(アシの原に作られた歓楽街-元吉原)を拡張したもの(上図②)と合流します。神田堀は幅三間(5.4m)程と狭く、防火、下水としての役割に利用されました。一方浜町の入堀(浜町堀)は浜町河岸という物揚げ場が広がり、水路として利用されたようです(鈴木理生著 江戸・東京の川と水辺の事典)。

江戸時代以降の竜閑川

神田堀はその後幕末にその役割を終え、埋め立てられます。しかしその後、明治16年(1883年)再び堀が開かれます。神田駅近くに神田下水という、明治17年(1884年)に作られたレンガ造りの地下下水がありますが、その排水先として再度神田堀が注目されたようです(栗田彰著 江戸の川あるき)。

神田堀はその後竜閑川と名前を変え、浜町堀も浜町川という名前になります。浜町川は神田川方面にも堀進められて(上図③)、明治以降に岩井河岸という物揚げ場が作られています。

その後、戦後の残土処理のため、竜閑川、浜町川はともに埋め立てられてしまいます。町の変化に振り回され続けた竜閑川ですが、現在もその流路は神田、日本橋の境(千代田区の境)となっていますし、竜閑橋、今川橋などの名称も交差点名として残っています。