江東、深川都市化の跡-竪川

江東、深川都市化の跡-竪川

堅川河川敷公園に残る護岸

江東区大島に堅川河川敷公園という公園があります。河川敷公園、と言ってもまっすぐに伸びた高速の高架があるだけですが、わずかに昔の護岸が残された箇所があり、河川が存在していたことをうかがい知ることができます。

堅川は万治2年(1659年)に本所奉行の徳山五兵衛重政と山崎四郎左衛門重政が幕府の名を受け開通されました。竪川の名前の由来ですが、江戸城から見てタテ、つまり放射状に伸びた運河であることからです。この辺りには横十間川、大横川などもありますがこれは江戸城から見てヨコ、環状に伸びたものだからです(江東区教育委員会 江東区の文化財7)。

堅川が作られたきっかけ、明暦の大火

火事と喧嘩は江戸の華、と言われますが江戸は火事が多い町でした。家康が江戸に幕府を開くと、商人、武士などが多く移り住むようになります。江戸はたちまち人口密度が高い町になりました。

もう一つ江戸で特徴的なものは、冬に吹くからっ風です。乾いた風が、木造建築が密集した江戸の町に吹きます。この冬場のからっ風が、都市化が江戸に火事が多い理由のひとつでした。明暦三年(1657年)、江戸は大火事に見舞われます。明暦の大火(振り袖火事)です。この火事により、江戸城をはじめ、江戸の町のほとんどが焼き尽くされてしまいます。

幕府はこの火事の復興策として江東、深川の都市化を進めます。既に都市部が飽和状態となっており、隅田川以東の江東エリアまで市街地化されていくことになりました。海岸部分の埋立などは焼け跡の残土などが利用されたようです。また、火事により、もともとこの辺りに倉庫を構えていた商店がそのまま店舗として利用するようになったことも都市化の一因と言われます。

この江東エリア再開発プロジェクトを担ったのが、徳山五兵衛重政と山崎四郎左衛門重政でした。万治2年(1659年)、両国橋が完成したのを皮切りに、横川、十間川、北十間川などの水路網も整備されます。

竪川も再開発がすすむ、1659年に掘削されました。目的としては低湿地帯の排水路の役割が主だったようです。ただ、1660年の天下普請で、神田川に舟運が通じることと時期を同じくするため、小名木川などの補助的な運河の役割も果たしたと思われます。実際に隅田川と中川を結ぶ運河として活躍し、深川の発展に大きく寄与しました。

江戸以降の堅川

明治に入ると、堅川が流れる江東エリアは工業地化が進んでいきます。江戸時代に整備された堅川、小名木川、十間川などの水運に優れている点、京浜地域、千葉、茨城へのアクセスの良さ、また、埋め立てにより安価で広大な土地が容易に入手できることがその理由です。

工業地化が進むにつれて、新たな問題が発生しました。地盤沈下です。今一度河川敷公園に残る堤防を見ると、河川側、道路側を見たときに道路側の方が低いことが分かります。

工業用水に地下水を利用していたため、地盤沈下がおこったためです。もともと利根川、荒川のデルタ地帯に広がる低湿地であったことに加え、工場からの揚水による地盤沈下が加わり、満潮面よりも地表が低い海抜ゼロメートル地域が広がることになりました。地盤沈下したこの地域を水害から守るため、護岸のかさ上げ工事が行われました。

堅川河川敷公園に残る堤防から江戸から続く都市づくりの痕跡を見ることができます。