小石川植物園の井戸と小石川養生所
文京区白山に、小石川植物園があります。正式な名称は「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」。東京大学の教育施設ですが、一般公開されており、広く植物園として親しまれています。
この小石川植物園内に、旧養生所の井戸があります。この井戸は江戸時代、この地にあった、小石川養生所で使われていたもの。関東大震災の際には飲料水としても利用された、歴史の古い井戸です。
歴代の将軍と小石川御薬園
綱吉と御薬園
なぜこの地に小石川養生所が作られたのかというと、この地に小石川御薬園という、幕府の薬草園があったためです。貧しい人々への投薬所として、小石川御薬園の隣に養生所が作られました。養生所と深い関係がある、幕府の薬草園の変遷をみていきましょう。
寛永15年(1638年)、三代将軍家光により、江戸城の南北に南薬園、北薬園という2つの御薬園が開かれます。
南薬園は麻布御薬園、目黒御薬園などと呼ばれ、港区南麻布の光林寺そばにありました。
北薬院は大塚御薬園、目白御薬園などと呼ばれ、現在の護国寺境内に当たります。護国寺が建立されるにあたり、廃止されました。
当時の南御薬園の広さは一万六千坪。貞享元年(1684年)に綱吉が将軍となると、不要となった小石川の下屋敷跡に南御薬園の植物を移植し、御薬園が誕生します。これが小石川御薬園の起こりです。
出来た当初の小石川御薬園は広さ一万四千坪だったのですが、綱吉の生類憐みの令の影響がここにも及びます。鷹狩が禁止となり、職を失った鷹匠たち。鷹狩で犬を用いるため、犬の世話になれていたことから犬の世話役に回されることになります。そのため、鷹匠が飼育していた鷹などの鳥類が小石川御薬園にまとめられることとなりました。その鳥かごの設置にあてられた土地が八千坪。広さが六千坪ほどに減少します。
吉宗と小石川御薬園
その後も周辺の開発により縮小し続けた小石川御薬園ですが、吉宗の代になり一変します。享保6年(1721年)には四万四千八百坪、現在の植物園とほぼ同じ広さとなります。
吉宗が御薬園を重視した理由は経済政策にあったようです。当時輸入に頼っていた朝鮮人参などの高価な薬草類を国内で生産できる体制を整え、輸入制限と国内の殖産興業をはかりました。
赤ひげ先生、小川笙船の思いと小石川養生所
小石川御薬園で作られた薬草を使い、貧しい人々の医療に役立てることはできないか、と考えたのが赤ひげ先生のモデルとして知られる小川笙船です。
小川笙船は小石川伝通院前で町医者として働いていました。その中で、貧しい人々の医療体制が十分でないことを問題視します。
当時江戸では地方からの出稼ぎが増加していました。こうした出稼ぎの内、江戸に親類がいない人々は「人宿」と呼ばれる奉公先あっせん業者を利用していました。人宿が出稼ぎの人々の保証人となり、奉公先へ紹介する、派遣業のような職業紹介が広く行われていました。
こうした出稼ぎの人々がひとたび病気になると、保証人である人宿のもとに戻されます。が、特別にゆかりがあるわけではない人宿との関係性から、十分な治療を受けることなく命を落とすといったケースも少なくなかったようです。
こうした状況を問題視した小川笙船は吉宗が制度化した目安箱に以下のような直訴をします。
江戸市内の極貧の病家は悲惨そのものである。武家奉公人が大病のとき、主家より保証人の人宿のもとに帰されるが、人宿は親戚でもないのでろくろく看病しないものが多い。そのほか妻子や身寄りのない貧乏人が病気になると見殺しになることが少なくない。このため施薬院を建て、右のような病人を収容し、治療を与えるべきである。
東京百年史
これによって、享保7年(1722年)、小石川御薬園の敷地内に病人40人収容可能な小石川養生所が完成します。小川笙船の目安箱への投書から1年ほどでの完成となりました。
小川笙船を始めとした町医者を中心に、貧しい人々の診療を行いました。
参考文献
- 小川明著/赤ひげと小石川養生所
- 木村陽二郎著/江戸期のナチュラリスト
- ピクトリアル江戸 町屋と町人
- 東京百年史
- 思文閣出版/医界風土記 関東・甲信越篇
- 辻達也著/徳川吉宗
- 内藤昌著/江戸の町
- 歴史群像シリーズ/徳川吉宗