芭蕉稲荷と芭蕉庵
江東区常盤に芭蕉稲荷という小さな社があります。境内には「芭蕉庵跡」の石碑もあり、俳人松尾芭蕉との関係性をうかがい知ることができます。
大正6年(1917年)9月、台風による高潮が東京を襲いました。その際、常盤1丁目から「芭蕉遺愛の石の蛙」と伝えられる蛙の石像が出土します。その後、地元の人々の尽力により、芭蕉稲荷が造営され、東京府により常盤1丁目が「芭蕉翁古池の跡」と指定され芭蕉庵跡地となります。芭蕉はこの常盤の地で火災などの理由により3度庵を移していますが、いずれも芭蕉稲荷のそばであり、芭蕉庵と深いつながりがある稲荷であることは間違いありません。
芭蕉庵の名前の由来は延宝9年(1681年)春、門人である李下から、芭蕉の苗を送られ、草庵に植えたことにあります。その芭蕉が良く育ったため、草庵はやがて芭蕉庵と呼ばれるようになります。この芭蕉から自身の俳号も芭蕉、と改め、今に知られる俳人松尾芭蕉が誕生しました。(江東区芭蕉記念館 芭蕉年譜)
芭蕉庵の様子
松尾芭蕉は草庵に移転直後に俳文「柴の戸」を記し、そのなかで
こゝのとせの春秋、市中に住侘て、居を深川のほとりに移す。長安は古来名刹の地、空手にして金なきものは行路難しと云ひけむ人の、かしこく覚え侍るは、この身のとぼしき故にや。
と述べています。また、梅人編 杉風句集(天明5年1785年)所収の「杉風秘記抜書」では、草案の場所を
深川元番所生簀のこれある所
と表現しています。追善集 夢三年(天和元年1681年 )所収の「寒夜の辞」では
深川三またのあたりに草庵を侘て、遠くは士峰の雪をのぞみ、近くは万里の船をうかぶ
草庵から眺める風景をのべています。
また、「芭蕉翁古池の跡」の古池は有名な芭蕉の句、
古池や
蛙飛びこむ
水のをと
の古池のことです。この句は、貞享3年(1686年)春、芭蕉庵で読まれた句です。
芭蕉がおくのほそ道へと旅立つまで
芭蕉庵は芭蕉の作品の中でも有名な紀行文、「おくのほそ道」の出発点でもあります。どのような足跡をたどり、そして芭蕉庵からおくのほそ道へと旅立っていくのでしょうか。
芭蕉誕生、良忠との出会い
芭蕉は寛永21年(1644年)伊賀国上野赤坂(現在の三重県伊賀市)に生まれます。幼名を金作、後に忠右衛門、甚七郎を名乗ります。兄1人、姉1人、妹3人の6人兄弟でした。その後、13歳のころ父与左衛門がなくなります。
寛文2年(1662年)前後、藤堂藩伊賀付、五千石の侍大将である、藤堂新七郎良精の息子良忠に仕え、台所用人、料理用人として働きます。良忠は芭蕉の2つ年上でした。
良忠と出会った時期(藤堂家に仕えた時期)には諸説あります。
- 9歳から11歳の頃
- 幼弱の頃
- 12歳から14歳の頃
- 19歳の頃
いずれにしてもこの良忠との出会いがこの後の芭蕉の人生を大きく変えることになります。
芭蕉、俳諧を学ぶ
良忠の祖父、良勝は俳諧をたしなむ人でした。その影響を受け、良忠とともに芭蕉も、貞門派である、京都の北村季吟を師匠として俳諧を学ぶことになります。芭蕉はこの頃、松尾忠右衛門宗房と名乗るようになり、俳号を宗房としています。俳諧を学んだ芭蕉はその才能を開花させていきます。
良忠の死
2つ上の良忠と親しくし、ともに俳句を学んだ芭蕉ですが、転機が訪れます。良忠が25歳にしてなくなってしまったことです。寛文6年(1666年)のことでした。良忠と親しくしていたこともあって、身分の異なる藤堂家に仕えることができていた芭蕉ですが、良忠の死去により、その職を辞することになります(高村忠範著 松尾芭蕉)。
その年芭蕉は師匠の北村季吟のいる京都に移り、さらに俳諧の腕を磨いていきます。
江戸へ下る
寛文12年(1672年)春、芭蕉はプロの俳諧師を目指し、江戸への下ります。江戸での最初の住まいには諸説あります。
- 日本橋小田原町(現在の中央区)
- 小沢卜尺 (小沢太郎兵衛)宅
- 向井ト宅に伴われ、小田原町の杉風宅 後 本郷、浜町、本所高橋など
- 仙風宅
- 四日市場の踏皮屋某方
深川に移居する直前の延宝8年1680年までには小田原町の小沢太郎兵衛、俳号卜尺の借家に住んでいたことが分かっています(江東区芭蕉記念館)。
芭蕉庵へ
その後、西山宗因の談林派の影響を受け、形式を重んじる俳諧から自由な発想の俳諧へとスタイルを変えていきます。この頃、俳号を桃青と名乗り俳諧師として名を挙げていきます。そして、延宝8年(1680年)冬、芭蕉は突如、宗匠生活を捨て深川の草庵に移ります。理由は諸説あり、
- 俳諧現状への不満と改革の意欲
- 経済的破綻
- 芭蕉の妾の寿貞が甥の桃印と駆け落ちしたため
- 火災による被害のため
などです。
宗匠としての収入は弟子の連句に点をつけ、その点礼として金銭をもらうというものでした。弟子たちの点取り合戦、また、宗匠同士の弟子の奪い合い等に芭蕉は嫌気を指していたとも言われます(荻原恭男監修 奥の細道)。芭蕉は俳諧の芸術性を追求し、真の俳諧の道を追求するために草庵に移ったというのが一説です。
そして、冒頭で記述した通り、延宝9年(1681年)春、門人である李下から、芭蕉の苗を送られ、草庵に植えます。俳号も芭蕉と改め、松尾芭蕉が誕生します。この芭蕉庵を拠点として、さまざまな旅に出かけ、紀行文を作ります。「おくのほそ道」も芭蕉庵からスタートしました。