金座と日本銀行-江戸時代の貨幣制度

金座と日本銀行-江戸時代の貨幣制度

金座跡に建つ日本銀行

日本橋本石町に日本銀行本店があります。この場所は江戸時代、貨幣の一つである金貨(小判)を作っていた金座がおかれていました。

小判は現在の円のような造幣の制度ではなく、製造、監督を行う後藤家の私企業により作られていました。江戸初期には本石町(当時は本町1丁目)にあった金座だけではなく、駿河、京都でも小判が作られていました。各地で作られた小判の品質保証の刻印を打つ金座役人、御金改役としての役目も後藤家が担っていました(東野治之 貨幣の日本史)。

江戸時代の通貨と三貨制度

関ヶ原の戦いに勝利した家康は、その後、統一的な貨幣制度を目指して、金貨、銀貨を発行します。金貨は大判、小判、一分金、銀貨は丁銀、豆板銀をそれぞれ作ります。
慶長大判

(慶長大判)

江戸時代の金貨というと上で挙げた慶長大判が思い浮かびます。しかし、大判は贈答用としての意味合いが強く、金の含有率も小判より低いものでした。墨書きで花押が書かれているのは流通によりすれることが少なかったからと思われます。小判1枚が1両、大判は大体7両(小判7枚)に交換して利用されたようです(東野治之 貨幣の日本史)。

慶長小判

(慶長小判)

金貨の表面のギザギザは金をたたきのばした跡です。金はたたくと伸びる性質があるため、この伸ばした姿を見せることで金の質を見せる意味合いがあります。もっとものちには単に装飾、偽造防止としての意味合いが強くなっていきました。

銅貨は金貨、銀貨より35年ほど遅れて発行されます。海外の銅貨の流通で混乱していたため、価値の基準としての銅銭の意味が薄れていたようです。そのため銅貨よりも先に金貨、銀貨の発行による貨幣価値の統一を目指しました。

これらの3つの貨幣(三貨)は統一した通貨としてではなく、全く別の通貨として利用されました。日本国内で円、ドルなど異なる通貨が同時に使われていたようなイメージです。これらの三貨は身分、品物などにより使い分けられました。例えば上級武士の褒章には金貨、下級武士には銀貨、お茶を買うときは銅貨、砂糖は銀貨など高価なものほど金や銀での流通であったようです(稲垣史生 時代考証事典)。また、地域によっても違いがありました。大阪は物流の町、扱う貨幣も多くなりますので、相対的に流通量が多い銀での支払いが多かったようです。

三貨はそれぞれ発行所も違いました。金貨は金座で後藤家が世襲で作り、銀貨は銀座で大黒家が作ります。銅銭は世襲ではなく認可制で選ばれた事業者が作りました。

これらの三貨が互いに両替されることもありますが、その相場は非常に流動的で、そのため両替商により計算の上両替されました。下記に三貨の違いを示します。

金貨 銀貨 銅貨
種類 大判
小判
一分金
丁銀
豆板銀
一文銭(寛永通宝など)
はかり方 枚数(計数貨幣)
四進法
一分金4枚で小判1枚(一両)
重さ(秤量貨幣) 枚数(計数貨幣)
使われ方 高価なもの、贈答用
江戸で多く利用
高価なもの(金貨より低額)
大阪で多く利用
安価なもの
作る場所  金座(日本橋本石町など) 銀座(中央区銀座など) 銭座(芝など)
作る人 後藤家による世襲 大黒家による世襲 認可による事業者