近代医学の祖-伊東玄朴と種痘所

近代医学の祖-伊東玄朴と種痘所

千代田区岩本町にお玉稲荷大明神という、小さな社があります。この辺りには江戸時代、お玉が池という池がありました。今ではお玉が池は埋め立てられ、お玉稲荷にその名前を残すのみとなっています。

お玉稲荷大明神
お玉稲荷大明神

お玉稲荷大明神のすぐそばに、お玉ヶ池種痘所跡を示す小さな案内板と碑があります。お玉ヶ池種痘所は、伊東玄朴をはじめとする蘭方医や、斎藤源蔵といった商人らが私財を投じて作った施設です。天然痘の予防接種である種痘事業を中心に、江戸における蘭方医学発展の中心的な施設となりました。

江戸の蘭方医学の礎、伊東玄朴

伊東玄朴とシーボルト

お玉ヶ池種痘所を起こした伊東玄朴は寛政12年(1800年)、佐賀の貧農の家に生まれました。家督を弟に譲り佐賀藩医の養子となって漢方医学を学びます。

文政6年(1823年)、伊東玄朴に転機をもたらす1人のオランダ人が来日します。オランダ人医師、シーボルトです。オランダの貿易拡大を目的とした調査のための渡航に、植物学研究および軍医として参加、来日しました。

その後シーボルトは日本側の異例の便宜により、蘭方医学を教える私塾、鳴滝塾を開設。伊東玄朴はその塾生として蘭方医学を学びます。

伊東玄朴、江戸へ

その後、文政9年(1826年)、伊東玄朴は江戸に出、本所に開業を果たします。開業間もなく、当時難病であったジフテリアの患者を治療。名声が高まり、天保4年(1833年)には、下谷和泉橋通り(台東一丁目)に象先堂と称する大邸宅を構えます。坪井信道、戸塚静海と並んで江戸の三大蘭方医として称されるようになっていきました。

蘭方医学の禁止と種痘所開設

順風満帆に見える伊東玄朴と蘭方医学ですが、そのの台頭を快く思わない、従来の医師たちとの軋轢が見え始めます。もともと江戸には医学館という幕府お抱えの医師(医官)を養成する機関があり、代々多紀氏が実権を握っていました。

嘉永2年(1849年)、医学館の督事、多紀元堅の建言により、幕府の医師に蘭方医学の禁止が発令されます。

苦しい立場に立った蘭方医学ですが、伊東玄朴ら蘭方医たちはその頃、海外で確立されていた種痘による天然痘の予防法に目をつけ、そこを突破口にこの窮地を脱しようとしていました。

そうした中でアイヌへの天然痘流行を重く見た幕府もこの種痘に目をつけます。種痘に詳しい町医者を募集して、蝦夷地への派遣を開始しました。

その機に乗じて、伊東玄朴ら蘭方医たちは安政5年(1857年)、お玉が池種痘所を開設。種痘所は蘭方医たちの一大拠点となりました。その後将軍家定の病気をきっかけに、蘭方医の治療が必要となったため、蘭方医学禁止令も撤廃されます。

種痘所も万延元年(1860年)に官立となり、その後西洋医学所となり、後の東京大学医学部へと発展していきます。伊東玄朴らが作った種痘所は日本近代医学の礎となりました。

伊東玄朴旧宅跡
伊東玄朴旧宅跡。お玉ヶ池種痘所は火災により焼失。この地に移されて官立となる。

牛痘と天然痘の根絶

伊東玄朴らが種痘で注目したのは、牛痘と呼ばれる病気のウイルスでした。イギリスのある地方では、牛痘にかかると、天然痘にかからなくなることが古くから知られていました。そのことに着目して、牛痘を接種する種痘が天然痘の予防として確立していきました。

イギリスから全国各地に広まった種痘は天然痘を確実に駆逐していきました。日本では1956年以来、天然痘患者は発生していません。ついに1980年、WHOは天然痘の世界的な根絶を発表。人類が根絶した初めてのウイルスとなりました。

谷中天龍院
谷中の天龍院。伊東玄朴が眠る。

参考文献

  • 台東区教育委員会/台東区歴史・文化テキスト
  • 宗田一著/図説 日本医療文化史
  • 鈴木昶著/江戸の医療風俗事典
  • ビジュアルパンデミックマップ