徳川家の繁栄と衰退を見つめた城-二条城の歴史

徳川家の繁栄と衰退を見つめた城-二条城の歴史

二条城の歴史

京都府中京区に二条城があります。国宝となっている二の丸御殿で知られている二条城ですが、江戸時代、家康の京都上洛の際の居館として造営されたものです。

家康以前の二条城

現在の位置にある二条城は家康が築いた城ですが、それ以前も二条城は別の場所に存在していました。織田信長が永禄12年(1569年)に将軍足利義昭のために築城したものでした。家康の天下統一により、この二条城は破却されることとなります。

家康造営の二条城

慶長6年(1601年)5月、現在の位置に二条城築城の工事が開始されます。四、五千軒もの町屋を退かせての工事でした。1年後の慶長7年5月には天守、御殿の工事が始まっています。当時の天守はもともと大和郡山城のものと考えられており、その後淀城に移築されたものが二条城に移築されたと考えられています。

慶長8年(1603年)には家康の将軍就任の祝賀が二条城で催されており、この頃にはほぼ二条城の築城が終わっていたものと考えられます。現地案内板にも、国宝に指定されている二の丸御殿もこの頃に造営されたとされています。

寛永の大改修

天和9年(1623年)には家光の将軍就任の儀式が執り行われるなど、将軍家の京都での対朝廷的な役割を果たしていくことになる二条城ですが、寛永元年(1624年)から秀忠、家光による大規模な改修が始まりました。理由は秀忠の娘、和子(まさこ)が入内した後水尾(ごみずのお)天皇の行幸のためでした。

慶長期に家康によって築かれた本丸の移転、行幸のための新御殿の造営などが行われます。幕府直轄の事業として、親藩、譜代大名19家による大規模な普請でした。

大政奉還と二条城

現在見ることができる二の丸御殿も、寛永の大改修により現在の形となりました。将軍家の様々な儀式が行われてきた二の丸御殿ですが、幕末、大政奉還の発表がされたことでも有名です。

土佐藩後藤象二郎により構想された大政奉還論は、朝廷の元、列藩の会議により政治を行い、将軍家はその議長として権威を維持するといった、武力討幕を避けるものでした。

慶応3年(1867年)10月3日、大政奉還の建白書が二条城にて、老中板倉勝静に提出されました。体系訪韓建白書を受け、慶喜は10月12日、守護職松平容保などを二条城に集め、自らの大政奉還の決意を告げました。10月13日、在京40藩の重臣を集めて改めて意見を求めます。そして翌14日、大政奉還の発表がおこなわれました。

同日、政権、位記返上を奏上し、15日、朝廷により承認されることとなりました。

現在に見る二条城の変遷

きらびやかな唐門や、二の丸御殿が注目を集める二条城ですが、よく見ると江戸時代の2期にわたる普請の跡や、堅牢な城のつくりを見ることができます。

堀川沿いの石垣

堀川沿いの二条城石垣

東大手門を出て、堀川通を渡ると、堀川が流れています。護岸の石垣は家康築城の慶長期に築かれた二条城の石垣の一部です。

石垣をよく見ると、大名家の刻印がされているものがあり、諸藩による大規模な普請の跡を見ることができます。

本丸櫓門

二条城本丸櫓門

二の丸から本丸にわたる際の門で、寛永期の大改修の際に作られたものです。銅板に覆われた扉は火器による攻撃に備えたもので、非常に堅牢な印象を受けます。また、本丸内には井戸、米蔵が作られており、籠城の際の備えが考慮されています。

鳴子門

二条城鳴子門

同じく本丸を防備するための門で、こちらも寛永期の大改修の際に作られたものです。寺の山門などに見る四脚門といわれる作りで、前方、後方に2本ずつ足が出て、門を支えています。

通常四脚門は前方、後方が同じ長さでせり出ているのですが、鳴子門は前方(場外側)の足の出が短く作られています。四脚門は足が破壊されると、門が簡単に倒れてしまいます。それを防ぐために出を短くしたのではないかと考えられています。

二条城鳴子門の四脚

唐門も同様四脚門なのですが、こちらはそのような工夫がされておらず、豪華で重厚なイメージを持ちます。号かな唐門を見ていると、儀式の場としての見た目、城としての堅牢さを併せ持たせるため、あえて四脚門が使われたのではないかという考えも浮かびます。

二条城唐門

徳川家の繁栄、衰退、時代の移り変わりを二条城は物語っています。

(参考文献:東京百年史 第一巻、子供に伝える明治維新史 明治の世直し、よみがえる名城白亜の巨郭「徳川の城」、小和田哲男監修 歴史を訪ねる 城の見方・楽しみ方、北原糸子著 江戸城外堀物語)