江戸湾の玄関、浦賀港
東京湾の入り口に近い横須賀市浦賀。東西の山に挟まれた細長い入江を形成しているため、江戸時代にも港町として栄えていました。「新編相模国風土記稿」にも
舟船輻湊の地にして戸口櫛比し、今四百五十烟皆商蕒なり、其内干鰯問屋三十戸あり
とその賑わいを記しています。干鰯は文字通り鰯を干したものです。九十九里や近郊でとれた鰯を加工、乾燥し、西国に出荷するための問屋が集まっていました。
干鰯は当時近畿地方で盛んにおこなわれていた綿花栽培の肥料となりました。
八代将軍吉宗の頃になると、流通体制の整備を図るため、浦賀奉行所が設置されます。奉行所は船番所としての役割を持ち、江戸湾を出入りする船の積み荷、乗船者のチェックを行い、浦賀はまさに江戸湾の入り口としての機能を果たしていきました。
幕末になると外国船の寄港、漂着といった事例が増え始め、浦賀奉行所は海防の拠点としての役割を強めていきます。
中でも文政元年(1818年)、浦賀に初めて訪れたイギリス商船ブラザーズ号は奉行所に大変な衝撃を与えました。交易を求めたブラザーズ号に対して対応を行った浦賀奉行所。
交易は長崎を通じてのみ行われることを伝え、江戸湾入港を防ぎました。これを転機に浦賀奉行役は2名体制となり、対策を強化させていくことにまります。
浦賀コミュニティーセンター分館の展示を撮影。ブラザーズ号を取り囲む番船の様子。
ペリー来航と浦賀
嘉永6年(1853年)6月(新暦では7月)、浦賀に今までにない衝撃が走りました。ペリー艦隊(黒船)の来航です。サスケハナ号、ミシシッピー号、プリマス号、サラトガ号の4隻の船で浦賀沖に投錨しました。
旗艦のサスケハナ号は2450トン、大砲9門を搭載した最新鋭の軍艦でした。日本の番船が100、200トンほどの大きさであったことから相当な威圧感を受けたことでしょう。
浦賀コミュニティーセンター分館の展示を撮影。旗艦サスケハナ号の模型。
ペリーとの交渉役を担った浦賀奉行所と中島三郎助
ペリー艦隊との交渉役をになったのもまた、浦賀奉行所でした。軍艦の慣例として、近づいてくるものの乗船を許可するというものがあるのですが、ペリーによって
- 乗船は用件のある者のみ
- 乗船は旗艦だけに制限する
- 乗船は1度に3名のみ
という3点が厳命されました。
日本側はブラザーズ号の時と同様、複数の番船を出し、艦隊を包囲しようとします。ペリー提督日本遠征記ではその様子が詳しく書かれています。
(略)・・・たくさんの番船が四方から群がってきた。乗り組みの日本人たちが食料、水、衣服、寝るためのマットなど長期滞在に必要な品々を持参していることから、艦隊を包囲する大勢をとろうとしているのは明らかだった。しかし、提督はかねてから、断じて包囲させてはならないと決意していた。日本人は何度かサラトガ号の舷側に横づけして、乗船しようと試み、・・・(中略)・・・彼らは鎖を伝ってよじ登ろうとしたが、それを阻止するよう命じられた水兵たちが、槍、短剣、ピストルを見せつけて相手をけん制し、わが士官や水兵が極めて真剣であることをわからせると、日本人たちは乗船の企てを思いとどまった。
その後、初めてアメリカ兵と接触できたのが、浦賀奉行所の与力中島三郎助でした。三郎助は通訳を介し艦隊の国籍や目的、などを細かく質問します。三郎助は日本で初めてペリー艦隊と接触をとった人物となりました。
久里浜での親書受け取り、中島三郎助のその後
ペリーの来航の目的は主に
- 通商の確保
- 自国遭難者の保護
- 自国船の寄港地確保と必要物資提供
であり、大統領名の親書を携えてきていました。前述の通り、当時の日本においては外国との一切の交流は長崎を通して行われることとなっており、親書の受け渡しも長崎を通して行う必要がある旨を伝えましたが、ペリーはそれを了承しません。三郎助と同じく浦賀奉行所の与力香山栄左衛門との間で交渉が行われますが、ペリー艦隊側の態度は軟化せず、さらに江戸湾内の測量など高圧的ともとらえられる姿勢を脅威に感じた日本側はついに親書を長崎外で受け取ることにします。
こうして浦賀に近く、ある程度の広さが確保できる久里浜の地にペリーが上陸。翌年再来航した際に通商についての取り決めのない、日米和親条約が結ばれ、開国へと進んでいくことになりました。
三郎助は香山栄左衛門とともにサスケハナ号に乗船し何度か必要なやり取りを米兵側と行っています。そうした三郎助の様子をペリー提督日本遠征記では以下のように描いています。
三郎助の方はずうずうしくて強引であった。・・・(中略)・・・しつこく詮索した。三郎助の方は終始せかせかして、粗野で、出しゃばりだった。こちらが誘おうと誘うまいと、彼は臆面もなくいたるところに顔を出して、自由な好奇心を満たすというよりは、スパイ行為をしたがっているように映った。
ずいぶん悪い印象を与えてしまったようですが、もともと観音崎台場といった海防の最前線で勤務をしていた経験もあり、海防への危機感が強かったと思われます。
三郎助はペリーが去ったのち、海防などの問題に対する上申を行います。そして、嘉永7年(1854年)、日本初の大型洋式軍艦「鳳凰丸」の建造に、建造主任としてかかわります。安政2年(1855年)には、勝海舟、榎本武揚らとともに、長崎海軍伝習所に派遣され、造船などを学び造船、操船の第1人者となっていきました。
しかし、時代は大政奉還、幕府の終焉へと向かっていきました。浦賀奉行所も廃止、与力も離職となります。三郎助は幕臣として徹底して新政府軍と戦うことを選びます。
三郎助は榎本武揚と行動を共にし、8隻の軍艦とともに江戸を離れ蝦夷地へと向かいます。函館五稜郭防御の前線に立ち、2人の息子、函館奉行所の与力仲間とともに最後まで徹底抗戦。ついに五稜郭本陣降伏の2日前、戦死を遂げました。
三郎助が戦った函館の地には、三郎助の名前にちなみ中島町、という町名が今も残っています。
参考文献
- 山本博文著/ペリー来航 歴史を動かした男たち
- NHKデータ情報部編/ヴィジュアル百科江戸事情
- 上白石実/幕末の海防戦略
- F.L.ホークス編纂/ペリー提督日本遠征記
- NHK趣味の手帳より幕末余話
- 中島義生著/中島三郎助文書
- 浦賀コミュニティセンター分館資料