開国を見守ったたまくす-日米和親条約と横浜

開国を見守ったたまくす-日米和親条約と横浜

横浜開港資料館のたまくす

横浜、大さん橋の近くに、開港広場という小さな公園があります。この場所は、嘉永7年(のちに安政に改元、1854年)、日米和親条約が締結された地で、日米和親条約調印地の碑もあります。

開港広場の近くに、横浜開港資料館があります。資料館に入るとまず目に飛び込んでくるのは中庭の大きな木。タブノキという木で、通称「たまくす」と呼ばれています。このたまくすの歴史は古く、嘉永7年のペリーの横浜来航を描いた絵には現在のたまくすの先祖にあたるとされている木が描かれています。

ウィルヘルム・ハイネによる横浜上陸の図
ウィルヘルム・ハイネによる横浜上陸の図。右に描かれた木がたまくす

たまくすの見つめたペリー来航

嘉永6年(1853年)6月(新暦で7月)、サスケハナ号、ミシシッピー号、プリマス号、サラトガ号の4隻でやって来たペリー艦隊(黒船)。浦賀にて大統領からの親書を渡しました(ペリー来航の地-浦賀と与力中島三郎助)。その返答の猶予を与え、いったんは江戸湾を去ったペリーでしたが、翌嘉永7年正月14日(1854年2月)、再び江戸湾に現れました。前回の来航時の上陸地、久里浜を通過しさらに江戸湾内に侵入、小柴沖(金沢八景の沖合あたり)まで北上し、16日(1854年2月13日)に錨を下ろします。

国家間の交渉であるため、日本の中心である江戸での会談を行いたいペリーと、江戸からなるべく船を遠ざけたい幕府側の意向が対立。約10日間ほど交渉の地(上陸地点)の選定に費やします。小柴沖には前回の浦賀来航時よりも多い7隻の船が投錨していました。この間も、ワシントン記念日として祝砲を計100発以上発射を行ったり、連日の江戸湾測量で羽田沖まで侵入するなど、揺さぶりをかけます。

ついにペリー艦隊側の意向が聞き入れられる形で、久里浜よりさらに近い横浜の地にペリーが上陸することとなりました。2月11日(1854年3月9日)の第1回会談を皮切りに複数回の会談が行われます。そして、嘉永7年3月3日(1854年3月31日)、たまくすの見つめる横浜の地で日米和親条約が締結。下田、函館の開港を含む12か条の条約が締結され、日本は長い鎖国体制に幕を下ろしました。

総領事ハリスの来日と横浜開港

安政3年(1856年)、日米和親条約からさらに進んだ通商条約を締結すべく、ハリスが来日します。日米和親条約の双方の認識の差異から、日本側は上陸を拒みますが、ハリスの強い主張により、下田に上陸。さらには江戸での徳川家定謁見を果たします。ハリスはイギリスの脅威などを説き、幕府側に揺さぶりをかける形で、条約締結を進めていきます。

条約締結において、ハリスが開港地として求めていたのは、函館、大阪、長崎、平戸、京都、江戸、品川、本州西海岸の2港、九州の炭鉱付近の1港でした。ここに神奈川(横浜)が加えられたのには、幕府側の意図が反映されています。

ハリスとの交渉に当たっていた、岩瀬忠震は、大阪開港により、大阪がさらなる商業の中心地となることを阻止し、江戸がそれを担う必要があるという主張をします。また、開港場を江戸近くとすることで取り締まりをしやすくし、さらに外国の軍事知識を導入しやすいというメリットもあると考えました。

その後も幕府側、アメリカ側の双方の意向が交わされます。

神奈川、長崎、新潟、兵庫の開港、下田は神奈川開港後閉鎖、江戸、大阪は市場開設、居留のみの許可

上記のように開港地が定められ、日米修好通商条約が締結されました。

神奈川開港に巡っては当初、東海道筋の神奈川も含むエリアが検討されていました。しかしその後の調査で、国内外の無用な接触を防ぐため、横浜に限定することが適当であると考えるようになります。そのため幕府は横浜も神奈川の一部であると主張し、横浜の整備を推し進めます。また、江戸商人の横浜移住の保護、奨励や、三井などの豪商を半ば強制に近い形で出店させるなど横浜の繁栄を後押ししていきました。こうして次第に神奈川よりも便利な横浜がさかえ、外国商館や領事館が集中するようになっていきます。

御開港横浜之全図
御開港横浜之全図

横浜の町の発展とたまくす

こうして開港地として横浜はどんどん発展していきます。たまくすはその後慶応2年(1866年)に発生した大火、また、関東大震災での被害を受けます。しかし、その都度芽を出し、現在の姿になっています。小さな漁村だった横浜が、ペリー来航以降変わっていく様子を今も見続けています。

参考文献

  • M.C.ペリー編纂/ペリー提督日本遠征記 下
  • 東京百年史 第一巻
  • 横浜市史 第一巻、第二巻
  • 小西四郎著/錦絵 幕末明治の歴史2 横浜開港