御殿山下台場の名残、台場小学校
品川区に台場小学校という小学校があります。この小学校周辺を地図で見ると五角形の形をしていることがわかります。この台場小学校は、ペリー来航以降に江戸湾防備の為築かれた台場「御殿山下台場」の跡に作られた小学校です。
御殿山下台場が築かれた当時、この辺りは目黒川が江戸湾に流れこむことで形作られた砂州がありました。その砂州の先端部分に御殿山下台場が作られたのですが、現在は埋め立てが進み、周辺も陸地化されています。ただ、当時の台場の輪郭だけが現在に飛び地のような形で残っています。台場小学校の校門前には、台場の石垣を使った記念碑があります。
(利田神社があるあたりが当時の目黒川河口。御殿山小があるあたりが砂州の先端に当たる)
計画された11の台場と御殿山下台場
台場の建設が開始されるきっかけとなったのはペリーの来航です。江戸市中を震え上がらせたこの出来事により、幕府は湾岸防備の重要性を再認識し、品川沖台場の建設を決定しました(お台場の地名の由来-江戸時代の軍事遺跡第三台場)。
当時、幕府は11の台場を築く計画を立てました。そのうち完成したのは第一台場から第三台場、第五、第六台場の5基に止まりました。第四、第七台場は工事が中断、第八台場以降は着工すらされませんでした。中断、未着工の台場の代わりに築かれたのが現在の品川区立台場小学校の位置にあった、御殿山下台場でした。
(品川海中江御台場新規御取立并絵図。計画当初の11の台場が描かれているが、御殿山下台場は描かれていない)
御殿山下台場が建設された理由と台場建設の費用
当初計画された11基の台場の広さは合計で42ヘクタール。おおよそ東京ドーム10個分の面積になります。これだけの広さの人工島を築くわけですから、莫大な資材、資金を必要としました。結果台場の構築費のみで75万両、数百億円規模の費用がかかっています。しかも、予定していた11基に及ばず、御殿山下台場を含む6基でそれだけの費用がかかっています。おそらく、第一、二、三番台場が作られたころには想定していたものより大きな工数、費用が発生したため、陸続きの御殿山下台場を建設する計画に切り替えられたと考えられます。
建設資金が想像以上にかかったことに加えて、ペリー再来航の直前、嘉永5年(1852年)5月に西の丸が火災により全焼、その再建費用の出費がかさんだため、安政元年(1854年)11月、当初予定していた11基の台場建設は中止を余儀なくされました。
台場建設にかかった費用は幕府のお金だけでなく、日本中からの上納金によって賄われました。江戸の豪商たちから集められた金額は29万2930両、そのほか関西の町人から集められた上納金が90万8925両など実に多額な資金があつめられています。また、江戸近辺の村々からも名主を筆頭に上納金が集められています。一例を見ると、多摩田無村では、名主から百姓まで、合計30名により計200両上納されています。
ペリー来航により引き起こされた混乱は、もはや幕府だけの話ではなく、日本中を巻き込んだ大騒動だったことがうかがい知れます。
参考書籍
- 品川区史
- 東京100年史
- 品川区立品川歴史館編/江戸湾防備と品川御台場