江戸時代の花見-桜の名所と桜餅

江戸時代の花見-桜の名所と桜餅

江戸時代の花見と桜の名所

隅田川沿い、墨田区立隅田公園。春になると、1000本の桜が咲き誇る、花見の名所です。

娯楽の少なかった江戸時代、花見は庶民でも楽しめる娯楽でした。桜に限らず、梅の名所の亀戸(江戸時代の梅の名所−亀戸梅屋舗)、百人町のツツジ(百人町の地名の由来-御家人の暮らし)など、様々な花を眺め春を楽しみました。

そんな中でもやはり今と同じく、桜の花見は大変な人気だったようです。現在も花見の名所として知られる上野公園は、徳川家の菩提寺である寛永寺の境内であり、桜の名所として江戸初期から知られていました。ただ、将軍家の菩提寺であったことから、謡曲は禁止、夜になると閉門してしまうなど制約も多かったようです。

江戸後期になると、飲み食いできて騒げる花見の名所が誕生します。八代将軍徳川吉宗が享保年間(1716年~1735年)に桜の木を植えさせたことがきっかけです。飛鳥山(江戸時代の桜の名所、飛鳥山-飛鳥山の由来と花見の起源)、御殿山(時代とともに姿を変えた-桜の名所御殿山)、そして墨堤等の場所で、それらは現在も桜の名所として続いています(図解 江戸の遊び事典)。

桜の名所、墨堤の賑わい

庶民も貴賤に関係なく、気軽に参加できる花見は大変な賑わいでした。特に墨堤の桜は江戸後期の代表的な桜の名所として有名でした。「江戸府内絵本風俗往来」ではその賑わいを

花見の場所数ある中に墨堤の花見に上こす賑ひはなし」

としています。

後年まとめられた「参考落穂集」では

厳有公[徳川家綱]の御代、屋形船といふもの頻に時に時花出(はやりいで)、数百艘出来し、

とし、「紫の一本」では

引汐にまかせて流し船にて踊るもあり、・・・涼みに出る船もあり、餅売りまんぢゆう売り、でんがく煮売り肴売り、・・・花火船をば呼かけて一艘切りにてたてさする。

とあり、物売りの船、踊り船、それらを見物する船、花火を打ち上げる船などお祭り騒ぎだったことがわかります。

非常な賑わい理由として、前述のとおり規制の多かった上野、下町から遠い飛鳥山、花の少ない御殿山と比較して、

向島に至りては、隅田川の清流舟の便りよく、堤上堤下掛茶店多くあり、渡舟に一棹さして、金龍山の寺内の賑ひ、少し進めば吉原の遊里より三谷の粋地、堤上は左右より桜花空をかくし、東面の田甫、西面の繁花。(江戸府内絵本風俗往来)

とその理由をのべています。江戸有数の歓楽街とも近く、交通に便利でさらに都市と事前が程よく調和されていたことが人気の理由のようです(小野佐和子著 江戸の花見)。

花見と食べ物

花見に集う人々を客とした飲食店も多くできます。「事跡合考」では待乳山門前の茶店で出された奈良茶人気を紹介しています(小野佐和子著 江戸の花見)。

また、現在も続く「長命寺桜もち」も名物の一つでした。「排風柳多留」に収録されている川柳でも、

下戸もまた ありやと隅田の 桜餅

長命と やらがよいねえ 桜餅

と詠まれています。山本新六という人が、銚子から江戸に出て、長命寺の門番となります。その後吉宗の植樹により桜の名所として花見の人々が増えたのをみて、桜の葉で餅を包むことを思いつき、「山本屋」を開きます。新六の桜餅は大ヒット。現在も長命寺桜もちとして、昔と変わらず花見客で賑わう墨堤で販売され続けています(興津要著 江戸味覚歳時記)。