千葉県南房総市に「酪農のさと」という牧場があります。酪農のさとは日本酪農の発祥の地といわれています。
古代日本と酪農
牛乳の飲用などの利用は六世紀の初め頃、大陸からの渡来人によってもたらされたとされています。しかし、日本では神道の影響から不浄を忌む文化がありました。動物の排泄物や血を穢れとして、肉食や牛乳の利用はあまり一般的ではありませんでした。
仏教と酪農
仏教の起源である古代インドでも牛は神聖なもので仏教においても肉食は禁じられていました。しかし、牛乳の利用は禁じられておらず、薬として重宝されていました。古代中国でも牛乳は主に薬としての効果が認められ、中国を経由して日本に牛乳の利用が伝わったとされています。
醍醐味の語源-古代日本の牛乳利用
この頃の日本には牛乳から作られる乳製品に5つが伝えられていました。「乳(にゅう)」「酪(らく)」「生酥(しようそ)」「熟酥(じゅくそ)」「醍醐(だいご)」です。
現代ではその製造法がはっきりとはしませんが、「遠亜医方名物考」という書物には
牛乳を搾り、磁孟或は桶にいれおくこと一宿、白色粘秱の脂油自ら浮きてその上面に束る、これ蘇なり、これを抄ひ取りて別に貯ふ。その餘の乳を深き桶にいれ、木棍或は手を以て力を極めて疾く攪拌すること良々久しきときは、其の脂油復自ら分れて凝り聚る。これ即ち酪なり。
生乳から乳脂肪を分離して作る蘇はクリームのようなものであり、それを乾燥、固めたものが熟酥、クリームを攪拌し脂肪分を固めたバターのようなものが酪であったのではないかと推測されます。一方で生乳を煮詰めて蘇が作られたともあり、正しくはどのような食べ物かわかっていません。醍醐もまた、生乳から加工されたバター、チーズのようなものであったとされています。
古代の乳製品の5つ「乳(にゅう)」「酪(らく)」「生酥(しようそ)」「熟酥(じゅくそ)」「醍醐(だいご)」を五味と呼び、仏教の功徳の段階がこの五味にたとえられています。
声明は乳の如く、縁覚は酪の如く、菩薩の人は生と熟の酥の如く、諸仏世尊は猶醍醐の如し
乳製品の最上の味が醍醐であり、本当の面白さ、最上の味を指す言葉である「醍醐味」の語源となっています。
吉宗と嶺岡牧
中国から伝わった酪農でしたが、広く一般に広がることはなく、上流階級の薬としての供給のためほそぼそと続けられていました。嶺岡牧のルーツは平安後期の「延喜式」に登場する珠師牧馬であるとされています。搾乳、酪農の知識を持つ渡来人が関東に移り住み、馬の放牧や、朝廷に献上するための蘇を作る牧場であった場所がそれにあたるようです。
慶長年間に里見氏がこの地で牧場を開き放牧を行ったのが現在に続く嶺岡牧の起こりです。その後里見氏が改易となり、嶺岡牧は慶長19年(1614年)幕府直轄の牧場となります。その後地震などの影響により、ほぼ牧場としての機能を失ってしまいました。
その後嶺岡牧の再興が図られたのは産業振興に努めた吉宗の時代になってからの事です。享保13年(1728年)にインド産の白牛を3頭輸入し、嶺岡牧で飼育を始めました。嶺岡牧では白牛の牛乳で「白牛酪」という牛乳を煮詰めて作る乳製品が作られていました。
家斉と白入酪の一般販売
嶺岡牧で作られた白牛酪はこれまで同様、幕府内で消費される薬として用いられていました。これが一般の手にも届くようになるのは11代将軍家斉のころのことです。嶺岡牧では白牛の繁殖が進められ、寛政年間(1789年~1801年)の頃には70頭余りを数えるほどに増加しました。それに伴い白牛酪の生産も増加していきます。
そこで幕府は白牛酪の販売による財源創出と、徳川家の宣伝のため白牛酪を一般に販売することとしました。寛政4年(1792年)、白牛酪考という小冊子を発行し、広報活動を行います。
白牛酪考には
- 嶺岡牧での白牛の飼育状況
- 白牛は天竺からの渡来であり難いものであること
- 白牛酪の薬効が優れてたものであること
- 幕府の仁徳によりそれを一般に販売すること
などが書かれていました。しかし白牛酪は非常に高価であったため、なかなか一般庶民に手が出るものではなかったようです。
明治に入っても嶺岡牧は存続しますが、明治6年の牛疫流行により、牛の数が減少。しかしその子孫の牛や幕府の酪農に従事していた者が各地に移り、明治以降の酪農の発展の礎となっていきました。
参考文献
- 加茂儀一著/日本畜産史
- 青木更吉著/嶺岡牧を歩く
- 前田浩史 矢澤好幸編著/東京ミルクものがたり
- 大谷貞夫著/江戸幕府の直営牧
- 一般社団法人Jミルク企画編集/近代日本の乳食文化
- 山口昌男監修/「モノ」のはじまり百科①