文京区目白台の関口の近く、神田川沿いに、肥後細川庭園があります。肥後細川庭園は江戸時代末期、肥後細川藩の下屋敷の庭園でした。
目白台と下屋敷
江戸時代末期の細川家下屋敷は、現在の細川庭園、坂を上り永青文庫、和敬塾を含み、目白通りに面する広大な敷地でした。
この地は江戸時代の中期ごろから武家地として利用されていました。時代の変遷とともに、江戸時代後期には徳川御三卿の清水家の下屋敷、そののち一橋家下屋敷となり、幕末肥後細川家の下屋敷と変わっていきました。
江戸時代初期でこそ、江戸城防衛のため、計画的な大名の屋敷配置が行われてましたが、元禄年間以降になると、幕府側の命令や、大名家からの願い出などにより、屋敷替えが行われていたようです。
旧町名、高田老松町の地名の由来
上述の音羽絵図の細川家下屋敷を見ると、現在の目白通り側の屋敷入り口に「亀」「鶴」の文字が確認できます。これは細川家下屋敷の門前にあった、老松の名前です。門に向かって左側にあったのが背の高い鶴の松。向かって右手の低く平らなものが亀の松と名付けられていました。
この辺りの旧町名を高田老松町というのですが、この地名は細川下屋敷の門前にあったこの2本の老松に由来するものです。
鶴の松は明治38年頃枯れてしまい、亀の松は昭和8年頃、残念ながら枯れてしまいました。肥後細川庭園内にある松聲閣(しょうせいかく)の中に、亀の松から作ったとされる火鉢が残されています。
高田老松町の地名も昭和41年に無くなってしまいましたが、町会名等に残り、広く人々に愛されています。
細川家庭園を挟む、幽霊坂と胸突坂
細川家庭園の両側には、幽霊坂と胸突坂という坂があります。幽霊坂は細川家が整備し、和敬塾に引き継がれた私道で、武家屋敷に囲まれ暗い坂だったことから誰となしに「幽霊坂」と名付けられたそうです。
もう一方の胸突坂。新撰東京名所図会には
水神社の東を上水端より関口台地へ上る坂あり、胸突坂という坂路極めて急峻なり。
新撰東京名所図会
とあり、急な坂であったため胸突坂と名付けられたようです。
坂に挟まれた細川家庭園。池泉回遊式の庭園(ちせんかいゆうしきていえん)で、目白台地を利用した立体的な作りとなっており、台地を山に見立てています。後に椿山荘となる黒田藩下屋敷なども目白台地にありました。こうした景観があったことも、この地に下屋敷が多くあったことの要因かもしれません。
参考文献
- 戸畑忠政編著/ぶんきょうの町名由来
- 東京都文京区教育委員会/文教の文化史
- 戸畑忠政編著/ぶんきょうの坂道