江戸時代の迷子案内板-一石橋と迷子しらせ石標

江戸時代の迷子案内板-一石橋と迷子しらせ石標

橋見物の名所、一石橋

日本橋川に、一石橋という橋が架かっています。一石橋は当時、八つ見の橋とも呼ばれ、江戸名所百景にも描かれています。

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この辺りは江戸時代、道三堀と日本橋川が交差する地点でしたので、橋が多く架かっていました。八つ見の橋はその名の通り、日本橋、江戸橋、呉服橋、銭瓶橋、道三橋、常盤橋、鍛冶橋、そして一石橋の8つの橋を見ることができたためその名がついています。

一石橋の名前の由来

一石橋の橋の名前の由来には諸説あります。1つは橋の北詰にあった金座を取り仕切っていた後藤家(金座と日本銀行-江戸時代の貨幣制度)と、南詰の呉服屋の後藤家の2家に由来する説です。後藤の音が容量を表す5斗(約90リットル)に転じて、5斗と5斗、合わせて1石(10斗で1石、約180リットル)であるためという何とも嘘のような由来です。以下のような川柳が残っています。

屁のような 由来 一石橋のなり

落語「十徳」にその由来が出てきますが、どうも当時から信ぴょう性のない由来として伝わっていたようです。

もう一つの由来は、永楽銭の使用が禁じられた際に、永楽銭1貫文と玄米1石を交換する交換場所がこの橋に設けられたため、というものです。

一石橋南詰の「満よひ子の志るべ」

道三堀が埋め立てられ、江戸時代とずいぶん様子が変わった一石橋周辺ですが、南詰には「満よひ子の志るべ」という迷子しらせ石標が江戸時代より残されています。

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案内板には以下のように記されています。

江戸時代も後半に入る頃、この辺から日本橋にかけては盛り場で迷子も多かったらしい。当時は迷子が出た場合、町内が責任を持って保護することになっていた。そこで安政四年(1857)、西河岸町の一石橋の橋詰に、迷子探しのための告知石碑が建立された。日本橋から一石橋にかけての諸町名主などが世話人となり、迷子保護の立場から町奉行に申請したものである。

石標を見ると、正面に「満よひ子の志るべ」と書かれていて、右側に「志(し)らす類(る)方」、左に「たづぬる方」と書かれています。迷子を保護した者は左側にその情報を書いた紙をはり、迷子を捜す親は右側にその特徴を書いた紙を貼る、というように使われていました。

江戸の町と迷子

人口100万を超える江戸の町では、盛り場など多くの人であふれていました。そのようなところで迷子になると探すのに一苦労。今のような交番や警察もないような状態ですから、そのまま生き別れにつながりかねない大事件でした。嘉永2年(1849年)に生まれ、紡績業、海産業を手掛けた実業家、鹿島萬兵衛は著書「江戸の夕栄」の中で当時の迷子の様子をこのように記しています。

夏期は割合に少なきも、冬分木枯し吹きすさむ頃になると、弓張提灯をつけ夜中四五人の一連(ひとむれ)、鉦を太鼓を打つかなしげな声で、「迷子の迷子の何某やあーい」と呼びあるく。

迷子を探す側だけが大変だったわけではありません。迷子を保護する側もまた、大変でした。当時、江戸では迷子は発見した町で保護して親を探すという暗黙の決まりがあったため、各町に設けられた自身番で親が見つかるまで養育する必要がありました。その費用は町内の地主がお金を出し合って賄っていたため町にとっては迷惑なことでもあったようです。親が見つからずそのまま大きくなり、養子にもらわれていくような子も一定数いたようです。

迷子探しのための仕組み

こうした迷子を探すため「満よひ子の志るべ」のような迷子しらせ石標がありました。まず、8代将軍吉宗のころ、享保11年(1726年)、芝口に掛札場が設けられました。

掛札場は市民向けの告知板です。迷子の他、倒死、病人、水死などの身元不明者について、年齢や衣服などの特徴をかき出し、7日間掲載するという処置がとられました。南は品川、西は代々木、北は王子、東は中川あたりまでの広いエリアの身元不明者の情報を掲示したようです。迷子を探す人は道々を鉦などを打ちながら探すほか、この告知板の情報をみて情報を収集することができるようになりました。

その後、関西で町人たちが自費を投じて、1本の石を盛り場にたてそこに保護した迷子の情報、探している迷子の情報を掲載するという仕組みを作りました。これが一石橋の「満よひ子の志るべ」のもととなりました。この仕組みは江戸にも伝わり、嘉永3年(1850年)、湯島天神境内に初めて「奇縁氷人石」という迷子しらせ石標(迷子石)が作られました。

もし江戸の街中で子供とはぐれてしまった場合、迷子石の「たづぬる方」に子供の特徴や年齢を書いて張ります。また、迷子を保護する人は「志(し)らす類(る)方」に保護している子供の特徴を書いて張ります。

幕末、維新以降の迷子探し

迷子石が迷子探しに功を奏したようでその後も江戸で迷子石が増えていきました。上述の案内板にもある通り、安政4年(1857年)、一石橋の迷子しらせ石標、「満よひ子の志るべ」が作られました。そのほか浅草寺境内にも作られましたがこちらはいつ作られたものかはっきりしません。

明治維新が起き、警察制度が整えられましたが、まだ十分ではなく、迷子が出るとやはり江戸時代と変わらず一大事だったようです。そのため、迷子石は維新後も機能していました。明治5年の12月、従来の3か所以外に、両国橋西詰に迷子石が新たに作られます。

その後明治6年に完成した、万世橋にもその翌年(明治7年)に迷子石が作られています。それ以降も迷子石が増えていきました。

明治7年、警視庁ができ、徐々に現在の交番のような形のものが作られていきますが、迷子はなかなか減らず、迷子石は明治10年ごろまでに、芝、日本橋など増設されていきました。

参考図書

  • 栗田彰著 落語地誌
  • 石本馨著 大江戸橋ものがたり
  • 川崎房五郎著 江戸八百八町
  • 鹿島萬兵衛著 江戸の夕栄