江戸時代の天文観測所-浅草天文台

江戸時代の天文観測所-浅草天文台

浅草天文台跡と暦

台東区蔵前に天文台跡の案内板があります。案内板によると、天明2年(1782年)牛込藁店(新宿区袋町)から移転、新築されたとあります。

天文台の規模は周囲約93.6m、高さ約9.3mの築山の上に、約5.5m四方の天文台が築かれているというものでした(現地案内板より)。天文台には子午線を観測するための象限儀、また、指針の回転により天体の位置と緯度、経度を測る簡天儀が備え付けられていました(学研 ピクトリアル江戸3)。

こうした天文台を利用しての天体観測の目的は暦を作ること、また、暦の作成方法(暦法)の改定のためでした。

日本の暦の歴史

日本の暦の始まり

日本で暦が用いられるようになったのは690年ごろのことです。「日本書紀」の持統天皇四年(690年)十一月十一日条に「勅を奉りて始めて元嘉暦と儀鳳暦とを行ふ」とあります(林 淳著 天文方と陰陽道)。その後、何度か暦法の改定があり、貞観4年(862年)、宣明暦が利用されるにいたります。元嘉暦、儀鳳暦、宣明暦はいずれも中国で作られた暦で、それを日本に輸入して利用していました。

和暦の導入

宣明暦は862年の導入から江戸時代まで実に823年もの長い期間用いられます。その理由として、林 淳著「天文方と陰陽道」では以下を挙げています。

  1. 日本に統一的な国家体制が成り立っておらず、統一した暦を作成、公布して利用することができなかった
  2. 暦を作る上での自然科学、テクノロジーが衰退していた
  3. 天皇家が継続し、王朝交代がおこらなかった
  4. 中国を中心とした冊封体制から日本がはずれていた

3については中国における暦の考え方に関係があります。中国では王朝における支配は天に命じられたもの、天子である皇帝が行う、という思想がありました。暦も天子を通じて天体を観測し、人々に授けるという「観象授時(かんしょうじゅじ)」という意味合いがあり、王朝における支配と深く関係がありました。日本ではこうした王朝の交代が起こらなかったため、改暦する必要がなかった、とする理由です。

4についても中国の思想が影響しています。冊封体制とは中国の皇帝が周辺諸国の国王に官位を与え、臣下として、その地域の支配を許可する、というものです。官位を得た国王は臣従の令をとり、与えられた中国暦を自国で使用します。その臣従関係が日本との間にはなかったため、改暦が発生しなかった、とする理由です。

上記の理由から長く使われた宣明暦ですが、1年の長さを実際より少々大きくとっており、貞享元年(1684年)には実際の天体の運行と2日のずれがあったとされています(内藤 昌著 江戸の町(下))。

そこで将軍綱吉の時代、幕府の碁師であった安井算哲の進言により採用されたのが貞享暦です。算哲はこの功によって幕府の初代天文方となり、渋川春海と名を改めます。綱吉はこれまで朝廷にあった天文方のほかにも、神道方、歌学方を幕府内に設置し、天皇家、朝廷の権威を利用した政策を進めました(林 淳著 天文方と陰陽道)。

寛政の改暦と浅草天文台

天文方を含め神道方、歌学方は世襲でその任を担っていたのですが、渋川春海の子が若くして亡くなったこと、また、天文方の仕事の専門性から広く弟子の間にその技術が伝わっていきました。

渋川春海が初代天文方となった頃の天文台は牛込藁店(新宿区袋町)にありました。その後、元禄2年(1689年)に本所、元禄14年に駿河台へと移されます。

享保元年(1716年)に将軍となった吉宗は天文、暦法に強い関心がある人でした。吉宗の指示のもと、延享元年(1744年)、神田佐久間町に天文台が設けられます。観測の結果、渋川春海の宣明暦にも誤差があることがわかり、改暦が進められます(学研 ピクトリアル江戸3)。

吉宗の作った天文台はその後、明和2年(1765年)、牛込に移され、その後現在の蔵前の浅草天文台へと移ります。ここ浅草天文台では高橋至時・間重富による寛政の改暦に際した、観測が行われています。至時の弟子には日本地図作成で知られる伊能忠敬がおり、渋川春海から始まった天文方の知識、技術はその後の江戸を支えていきました。