井伊直弼終焉の地-江戸城桜田門

井伊直弼終焉の地-江戸城桜田門

井伊直弼終焉の地-江戸城桜田門

優れた防御設備、桜田門

警視庁、法務省などが立ち並ぶ霞が関に桜田門があります。江戸城の主要な門はほとんどが「桝形門」という形式の門でした。桜田門もこの桝形門の形をとっており、現在でもその形が昔のままに残っています。

桜田門を内堀の外側、警視庁側から入るには、まず堀にかけられた橋をわたる必要があります。橋を渡った先にまず一つ目の門「高麗門」が立ちふさがります。門の両側は高い塀となっており、門の幅もあまり広いものではなく、一度に多人数が通過できるものではありません。

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高麗門をくぐり抜けると、四角形の広場が広がります。広場は堀、塀に囲まれており、城内へ進むためにはさらに渡櫓の下に作られた門をくぐる必要があります。この四方を囲まれた形から、桝形門という名前がついています。

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上記のとおり、桝形門は防衛上非常に有利な作りになっています。まず、城内に入るためにはこの「桝形」の部分に入る必要があります。桝形への入り口は狭く、少人数しか入ることができません。一方、渡櫓の下に設けられた門は広くできており、少人数の攻撃側に対して、大人数で挑むことができます。さらに櫓からは桝形に向かって上方からの攻撃をすることが可能です。桜田門はこのような江戸城の優れた防備を今に見ることができます。

このような江戸城防備の桝形門の典型といえる桜田門ですが、桜田門の名前が知られる要因となった出来事は「桜田門外の変」かと思います。老中井伊直弼が水戸浪士を中心とする勤王攘夷派に暗殺された事件です。

桜田門外の変と井伊直弼の評価

桜田門外の変の原因となった出来事として「日米修好通商条約」の締結があげられます。本来勅許(天皇の許可)をもって締結されるべき米国との条約を井伊直弼を中心とする開国派が勅許を得ずに締結をした、とみなされたことに端を発します。開国を良しとしない水戸藩一橋徳川家を中心とする一派は朝廷に働きかけ、井伊直弼らの条約締結への非難、攘夷(外国の圧力を武力によって排除すること)を進める勅書(命令)の下賜を受けます。

本来勅書は幕府(将軍家)に対して下されるものであり、将軍の配下である一大名に対しての下賜は幕府の威厳を大きく失墜させることにつながります。このことを重く見た井伊直弼の一派は水戸藩を中心とする一派を処分します。これが安政の大獄です。こうした流れが桜田門外の変へとつながっていきます。

尊王攘夷の流れはやがて、尊王討幕へと変わり、王政復古を実現します。明治以降の歴史においては幕府側である井伊直弼ら敗者に対して一方的なものでした。しかし、近年の研究から井伊直弼の現状を直視したうえでの現実的な外交姿勢、また、あくまでも国体を全うするための苦渋の選択を行っていることがわかっています(吉田常吉著 井伊直弼,彦根城博物館 幕末の政局と井伊直弼)

埋木舎と井伊直弼の言葉

彦根市、彦根城のわきに埋木舎(うもれぎのや)という質素な屋敷があります。井伊直弼が17歳から15年間を過ごした屋敷です。

井伊直弼は11代藩主井伊直中の14男として生まれました。しかも正室ではなく、側室の子。井伊家の跡継ぎではありませんでした。井伊家の家風により、直弼はわずかな宛行扶持(手当)をもらい、この屋敷で過ごすことを余儀なくされました。世に出ることのない自身を花の咲くことのない埋木にたとえ、以下のような歌を残しています。

世の中を よそに見つつも うもれ木の 埋もれておらむ 心なき身は

世に出る可能性が低いとしても、すべてをあきらめてただ時を過ごすのではなく、自分がなすべきことを模索する、そんな強さを感じます。

井伊直弼は15年間で国学、禅、和歌、茶など様々な勉学に励みます。桜田門で命を落としますが、日本の歴史を動かす大きな役割を果たしました。

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(彦根市埋木舎)