四谷に笹寺(長善寺)というお寺があります。天正3年(1575年)に建てられた庵がその起源といわれ、江戸時代以前からある古いお寺です。
四谷笹寺の碑
笹寺(長善寺)の境内に入ると、大きな碑に気づきます。碑には「四谷勧進角力始祖」とあります。古今相撲大全という書物に
江戸勧進すまふの始は、人皇百十代明正院御宇、永元子のとし、明石志賀之助といへるもの初めて寄相撲と号け、四ツ谷塩町において、晴天六日興行いたせしが最初なり
大相撲史入門より引用
とあります。寛永元年(1624年)四ツ谷の笹寺で、明石志賀之助が六日間の興行を行ったと記載があります。それを根拠として明治に入り作られた石碑が「四谷勧進角力始祖」の碑です。
勧進相撲とは
勧進とは本来、人々に仏道を進め、善をさせることでしたが、平安時代の末頃から、寺社や仏像などの建立、修繕のために金品の寄付を募ることを指すようになりました。14世紀以降、勧進のため金銭を徴収する見世物を行うようになり、相撲もその1つとして行われました。寺社や仏像の建立、修繕のために金銭を徴収して行われる相撲を勧進相撲というわけです。
寛永19年(1642年)に刊行された「あづま物語」の中に勧進相撲の描写があります。
てんま町を通りねぎ町にいたりぬ、小唄、三味線、笛の声、琵琶、琴、太鼓、鼓の音、心もそぞろに聞きながして、これは何ぞとたずぬれば、村山左近が大歌舞伎、薩摩たくみがあやつり、勧進相撲とさかのふ、そのほかいろいろ数限りなく見えにける
大相撲史入門より引用
何とも楽し気な、まるでお祭りのような状況の中で勧進相撲が行われていたことがわかります。まだまだ作り立ての江戸の町ではこのような勧進相撲が至る所で行われていたと想像されます。
勧進相撲の石碑と横綱
勧進相撲を初めて江戸で行った明石志賀之助。初代横綱とされています。身長八尺三寸(251cm)、体重四十九貫(184km)と伝えられています。ただ、この明石志賀之助に関しては諸説あり、実在した人物なのかどうかが定かではありません。また、明石志賀之助が勧進相撲を行った場所についても確かな書物がなく、石碑にある通り、笹寺が江戸の勧進相撲発祥の地とするには少し疑いの余地がありそうです。
江戸時代の勧進相撲の歩み
江戸初期頻繁に行われた勧進相撲ですが、かぶき者と呼ばれた反社会的な勢力との結びつきも見られました。そこに人が集まり喧嘩や口論が起こり問題となりました。幕府は治安維持のため、慶安元年(1648年)勧進相撲と、広小路などで行われていた辻相撲を禁止します。その後30年余り勧進相撲が禁じられていました。
貞享元年(1684年)、勧進相撲が許可されると富岡八幡宮で再開後初の勧進相撲が行われました。勧進相撲の許可には、当時開発が進められていた深川、江東地域の市街地活性化の狙いもあったとされます。
江戸の町の発展と勧進相撲が密接に結びついていたことがうかがえます。
参考文献
- 土屋喜敬著/相撲
- 高埜利彦著/相撲
- 池田雅雄著/大相撲史入門
- 新田一郎著/相撲の歴史