江戸時代の梅の名所−亀戸梅屋舗

江戸時代の梅の名所−亀戸梅屋舗

江戸時代の梅の名所−亀戸梅屋舗

広重に描かれた梅の名所

歌川広重の江戸名所百景。その中でも非常に奇抜な構図で描かれているのが、30景、亀戸梅屋舗です。(https://ja.wikipedia.org/wiki/名所江戸百景#/media/File:Hiroshige_Pruneraie_à_Kameido.jpg)

江戸百景には、描く対象に大きく寄った拡大構図の絵が多いのですが、この亀戸梅屋舗もその一つ。手前に描かれた梅の幹が画面の大半を支配しています。江戸百景をはじめとする日本の浮世絵は海外の画家たちにも影響を与えます。ゴッホもまた、日本の浮世絵に大きく影響を受けた画家の一人です。特にこの「亀戸梅屋舗」と、「大はしあたけの夕立」については、模写まで残しています。パリで開催された万国博覧会(1855年)をきっかけに日本趣味(ジャポニズム)が広がり、ゴッホをはじめとする多くの印象派の画家たちが影響を受けました。

江戸っ子に人気の花見スポット、亀戸梅屋舗

江戸百景にも描かれている亀戸梅屋舗は浅草の伊勢屋彦右衛門の別荘として作られました。子孫の喜右衛門の頃には庭の梅は300株ほどあったとされています(江東区教育委員会 江東区の文化財6 亀戸Ⅰ)。この亀戸梅屋舗、正式には清香庵と称していたのですが、多くの梅が植えられていたことから梅屋敷、と呼ばれるようになったようです。

亀戸梅屋舗は梅の名所として江戸市中に知られており、数々の浮世絵、書物でも紹介されています。「江戸名所花暦」には、

梅屋敷立春より三十日め

本所亀戸天満宮より三丁ほど東方にある、清香庵(せいきょうあん)喜右衛門の庭中に、臥龍梅と唱える名木がある。実に龍が横たわっている如くした形で、枝は垂れて地中に入ってまた地を離れ、いずれを幹とも枝とも定めがたいものである。匂いは蘭麝(らんじゃ)に負けずと張り合うほどで、花は薄紅色である。園中には梅の木が多いと言えども、この臥竜梅は殊に勝れた樹木である。四月の頃に至れば、実梅(みうめ)と号(な)づけて、人々はその詠めながめを楽しむ。

とその素晴らしさを表現しています。(訳文は棚橋正博著 江戸の道楽から引用)

上記「江戸名所花暦」でも紹介されている「臥龍梅」は冒頭の江戸百景でも描かれている、亀戸梅屋舗でも一番人気のあった梅の木です。「新編武蔵風土記稿」によれば、徳川光圀が梅屋敷を訪ねた時に、一株の梅がまるで龍が地を這うように見事に咲いていたため、臥龍梅と命名したとされています。享保9年(1724年)には8代将軍吉宗も遊猟の際に立ち寄り、この梅を代継梅と名付けたとされています(江東区教育委員会 江東区の文化財6 亀戸Ⅰ)。このように亀戸梅屋舗の評判は江戸市中に響きわたり、梅の時期には多くの人で賑わっていたことでしょう。

亀戸梅屋舗の現在と新梅屋敷

江戸っ子たちに絶大な人気を誇った亀戸梅屋舗。現在は残っておらず、昭和33年に建てられた石標と一本の梅が残ります。明治43年(1910年)の水害によって梅樹が枯死したため、梅屋舗は閉園となってしまいました。

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この梅屋敷の後にできて、新梅屋敷と呼ばれたのが、向島百花園です。

百花園は文化元年(1804年)に佐原鞠塢(さわらきくう)が三千坪の土地を求めて造園したものです。

鞠塢は奥州仙台の生まれ。江戸へ出て骨董商を営み財をなしたようです。文人として複数の作品も残しているようですが、人物についての詳細はあまり知られていません。棚橋正博著、江戸の道楽によると、

文化7年には商売上の不始末で江戸所払いに処され、以後家督を子に譲って隠居、剃髪の身となり、天保2年八月二十九日没、享年70とされるが、その他詳しい経歴は不明である。

とあります。いずれにしても向島百花園は今も庭園として残り、梅を始め沢山の草花を楽しむことができます。

また。亀戸梅屋舗跡のそばにある亀戸天神社には300本の梅が植えられ、梅の名所を引き継いでいます。