銀座を横断する運河-道三堀跡

銀座を横断する運河-道三堀跡

千代田区新大手町ビルヂング脇の道に案内板があります。案内板は道三堀にかかっていた、道三橋跡を示すものです。
徳川入城当時の江戸は江戸城近くまで日比谷入り江が入り込んでいました。現在の気象庁あたりまで入り江が入り込み、さらに平川(現在の日本橋川)が流れ込んでいました。現在の銀座、東海道が走る辺りは江戸前島といって、半島になっていました。
道三堀はそんな江戸前島の付け根を横断する形で掘削されています。道三堀が掘削されたのは1590年代の初め、まさに家康が江戸に入城してすぐの事です。家康が入城した頃の江戸城は関西の城と比べて大変に貧弱だったようです。

江戸は遠山の居城にて、いかにも麁想、町屋なども茅ぶきの家百ばかりも有りかなしかの体、城もかたちばかりにて、城の様にもこれなく
「聞見集」石川正西

家康は居城となる江戸城の改修を後回しに、道三堀をはじめとする水運を整備しました。特に道三堀は同じ時期に掘削された小名木川とつながり、行徳で生成された塩を運ぶ運河として作られました。
江戸時代の塩の道-小名木川(http://edokara.tokyo/conts/2015/08/30/167)
自身の居城を後回しにして江戸発展のために、という美談に捉えられなくもないのですが、当時のまちづくりのを考えると、唯一の大量輸送手段である舟運のための運河を整備することは必要不可欠であったと考えられます。また、1605年に隠居し、駿府城に移っていることからも、「永住の地」としての江戸を家康自身がどこまで考えていたかはわかりません。
しかし、家康の広域的なまちづくりにより、江戸の発展が支えられたことは間違いありません。