江戸時代の芝居町-木挽町と江戸歌舞伎

江戸時代の芝居町-木挽町と江戸歌舞伎

江戸時代の芝居町-木挽町と江戸歌舞伎

江戸時代の芝居町、木挽町

中央区に歌舞伎座があります。明治22年(1889年)にこけら落としが行われて以来、関東大震災での罹災、戦災など時代とともに立て直され、現在の歌舞伎座は5代目。今では歌舞伎の殿堂として広く人々に知られています。

江戸時代も現在の歌舞伎座とほぼ同じ位置に森田座という芝居小屋がありました。森田座は万治3年(1660年)、森田太郎兵衛が木挽町に櫓をあげたことに始まります。

木挽町はそのほかにも山村小兵衛による山村座、河原崎権之助による河原崎座があり、総称して木挽町三座と呼ばれました。木挽町へ行く、と言えば芝居見物の事を指すほど、芝居町として栄えました(竹内誠監修 日本橋・銀座の400年)。

江戸歌舞伎の始まり

江戸歌舞伎の原点といえるのは出雲の巫女、また、遊女であった「阿国」という女性が京都で舞ったものと言われています。これが京都で人気となり、その人気はたちまち江戸へと伝わります。江戸では遊女歌舞伎として行われるようになりましたが、寛永6年(1629年)に禁止、その後若衆歌舞伎というものがはやりますが、これも禁止されます(関根黙庵著 演劇大全)。どちらも性風俗の乱れにつながることを懸念されたからです。

しかし、芝居そのものが禁止されたわけではありませんでした。猿若勘三郎が寛永元年(1624年)、中橋(日本橋と京橋の中ほど)に歌舞伎狂言座を建てることを許されます。猿若座の起こりです。その後慶安4年(1651年)に堺町(日本橋人形町3丁目)に移転し、座の名称を猿若座から、本姓の中村をとり中村座としました。この中村座が江戸歌舞伎の起こりとなりました。

中村座の人気から、寛永11年(1634年)に村山又三郎が葺屋町(人形町3丁目)に村山座を作ります。村山座は承応元年(1652年)に市村座に改称します。堺町、葺屋町を合わせて二丁町といい、他の芝居小屋も集まり1大芝居町となりました。

江戸三座(公許三座)と芝居町の移転

その後寛文3年(1663年)に木挽町三座のうちの河原崎座が休座。大奥女中である江島と山村座の役者生島新五郎の密通が発覚した江島・生島事件により山村座も正徳4年(1714年)に廃座となりました。

このように幾多の芝居小屋、座があったのですが、その中でも中村座、市村座、森田座を江戸三座(公許三座)といい、江戸町奉行所によって公式に認められた座でした。

江戸三座は公許のあかしとして、芝居小屋の屋根の上に櫓を立てることを許されていました。また、おなじみの縞模様の幕(定式幕)も、公許の小屋でしか利用できないものでした(江戸文化歴史検定協会 大江戸見聞録)。

江戸三座は天保13年(1842年)幕府の命によって浅草聖天町に移転します。その後町は江戸歌舞伎の創始者猿若勘三郎の名をとって猿若町となりました。

木挽町三座のあった木挽町の町名も現在はありませんが、現在も歌舞伎座が建ち芝居町としての面影を残しています。

  • 木挽町三座
創立年創立者場所その他
 山村座1642年山村小兵衛木挽町4丁目1714年、江島・生島事件により廃座
河原崎座1648年河原崎権之助木挽町5丁目1663年休座
森田座1660年森田太郎兵衛木挽町5丁目江戸三座の一つ
  • 二丁町
創立年創立者場所その他
 中村座1624年猿若勘三郎堺町中橋にて猿若座として創立、その後中村座として堺町に移転。江戸三座の一つ
市村座1634年村山又三郎葺屋町村山座として創立、その後1652年市村座に改称。江戸三座の一つ