五箇国条約と攘夷-東禅寺事件

五箇国条約と攘夷-東禅寺事件

江戸時代開創のお寺、東禅寺

品川駅から10分ほど田町駅方面に旧東海道(第一京浜)を進み、100mほどの参道を奥へ入ると東禅寺があります。国の史跡に指定されている境内には本堂や三重塔があり、第一京浜から近い距離にあるにも関わらず静寂に包まれています。

東禅寺はもともと、嶺南庵といい、溜池のあたりに慶長15年(1610年)に開創した庵でした。開山は、家康、秀忠の軍学師範でもあった僧の嶺南。嶺南庵は嶺南の名前から来ています。その後、寛永13年(1636年)に現在の港区の地に移ります。

東禅寺は大名家の檀家が多く、嶺南と同郷の日向飫肥の藩主で、寺の開基でもある、伊東修理大夫祐兵を始め、多くの大名家の墓地があります。

東禅寺境内
東禅寺境内

五箇国条約と東禅寺

東禅寺が歴史上その名を知られるようになったきっかけは、アメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとの間に結ばれた通商条約にあります。アメリカとの間で日米修好通商条約が結ばれると、他の4か国とも通商条約を結びます。これらを総称して、五箇国条約といいます。五箇国条約では日本国内に各国の領事館、公使館を置くことが表記されており、イギリスの仮公使館の場所として定められた場所が東禅寺でした。

各国の総領事、所在地一覧表(安政6年)

国名氏名領事館所在地
アメリカハリス総領事、のち弁理公使伊豆下田 玉泉寺
のち 麻布善福寺(仮公使館)
オランダクルチュウス
のち デ・ヴィット
理事官
総領事兼外交代表
芝 長応寺(本拠は長崎出島)
イギリスオールコック駐日総領事兼外交代表高輪 東禅寺(仮公使館)
フランスデ・ベルクール総領事兼外交代表三田 済海寺
ロシアゴシケヴィッチ領事兼外交代表函館

攘夷の気運の高まりと第一次東禅寺事件

公使館が作られ、外国人が町を歩くようになると、一般市民とのかかわりもすこしづつ増えていきました。当初は好奇の目で見られる対象でしかなかった外国人ですが、次第にトラブルが増えていきます。この頃の様子を幕末に日本に訪れていたポンペという外国人は以下のように記しています。

日本人は外国人を軽蔑するようになった。特に以前に比べると、確かにそれがはなはだしくなってきた。1857年(安政4年)から58年(安政5年)には、日本人はいつもわれわれに対して友好的であった。

・・・(中略)・・・

しかし1862年(文久2年)になると、ヨーロッパ人が遠方に来るのを見ると、たちまち急いで屋内に逃げ込んでしまうようになった。この二、三年間にわれわれが受けた経験はわれわれに不利なことばかりであった。それは大体は、1859年(安政6年)の終わりに日本に流れ込んだ教養のない連中がそうさせたのである。船員は、軍艦や商船の乗組員も一様に多くの悪事を働いた。

イギリス公使館がおかれた東禅寺の近く、品川宿にも、外国人は訪れています。南品川宿の名主による記録、異国異人関係御用留には

異人五人酒給、酔狂之体ニて早足ニ罷越、・・・

異人只願女を出シ候・・・

と、泥酔した外国人が、旅籠に押しかけ、飯盛女を差し出せ、といってきて騒動になったことなどが書かれています。

こうしたこともあり、一般市民や下級武士たちの攘夷感情が高まっていき、多く外国人殺傷事件に発展していきました。

こうした中で、文久元年(1861年)5月28日、水戸の浪士である有賀半弥、前木新八郎ら14名により、イギリス公使館がおかれた東禅寺を討ち入りするという事件が起きました。これが第一次東禅寺事件です。

当時の英国公使であったオールコックが、香港からの帰り道、陸路を長崎から品川へ移動したことに対し、「神州である日本の土地を汚した」と非難したことが事件の発端となったようです。

外国人警護のために組織された別手組は、侵入した水戸浪士とよく戦い防ぎましたが、外国人負傷者2名を出す事件に発展してしまいました。

第二次東禅寺事件

第一次東禅寺事件の後、オールコックは一時的に公使館を横浜に移しました。しかし、オールコックが休暇により帰国。その後代理の公使、ニール中佐は、情勢が沈静化したとして、再び江戸に帰る決断を下しました。

文久2年(1862年)5月15日、海兵30名を引き連れて東禅寺に着任。そのため、別手組を始め、松本藩などの藩兵500人以上が東禅寺の警備を固めました。しかし、第一次東禅寺事件から1年後の5月29日、再び東禅寺が襲撃される事件が発生してしまいます。当時現場にいたイギリス人医師、ウィリアム・ウィリスは手紙の中にこのように記しています。

6月26日(新暦)、夜の12時半から1時の間に、突然、私は異様なけたたましい騒音で目がさめました。たけり狂った野獣のような叫びや、日本の太鼓の響きや、確かに襲撃の物音が聞こえてくるのです。・・・(中略)・・・

寝台から飛び起きて入り口のほうへ突進していくと、今はもう故人となったのですが、そこにクリンプ伍長が立っていたのです。何事なんだと私があわてて尋ねても、彼も全然検討がつきません。 ・・・(中略)・・・

私の部屋と約5ヤード離れたところで、ばったりと刺客に遭遇したのでした。ただちに、闘いが起こりました。伍長は拳銃を発射し、はっきりと私の名前を呼びましたので、回廊の手すりから身をのりだしてみました。 ・・・(中略)・・・

私は極度に不安におののきながら、これまでの人生の移り変わる光景が、はっと息をのむような早さで脳裏に浮かびました。お母さんや、あなた方一人ひとりのことが、そしてあなた方が耳にする私の最後の悲劇的な話が、頭を横切りました。クリンプ伍長と暗殺者の闘いはもう聞こえません。伍長は殺害されたか、あるいは建物の内部についたのだろうかと考えましたが、前者の推測が当たっていたのです。 ・・・(中略)・・・

ウィリアム・ウィリスは障子に身をひそめながら、真っ暗な回廊を手探りで伝いながら、士官や護衛兵がいる部屋へと報告に向かいます。

ニール中佐の部屋の入り口に立っていた番兵は、ひどい重傷を負っていました。彼はそのような致命傷を受けたにもかかわらず、刺客が彼を死んだものと見逃したので、根限りに建物の内部に這い上がり、おびただしい出血の中で呻いていたのです。私はその番兵の傷口の応急処置をしました。

事件により、伍長クリンプ、そして番兵のスイートの2名が亡くなりました。事件の犯人は警護に当たった松本藩の伊東軍兵衛という藩士でした。軍兵衛は外国人への反発や、警護のために松本藩が貧窮していくことへの怒り、外国人のために日本人同士が争うことの愚かさを訴え、自身一人の命で松本藩が警護の任を解かれるのであればと考え犯行に及びました。犯行後軍兵衛は自刃。松本藩は警護の任を解かれます。

東禅寺はその後、外国の大使館となったことを嫌がる大名が、檀家を離れるケースが複数発生し、経済的に困窮していくこととなりました。当時に比べて、敷地は縮小し、建物も多くは失われていますが、公使館員の宿所となっていた「僊源亭」と庭園が当時の姿を残しており、国の史跡にとして指定され、今日に至っています。

参考文献

  • 東京百年史 第一巻
  • ヒュー・コータッツィ著/ある英人医師の幕末維新
  • 川崎房五郎著/大江戸二百六十年
  • 俵元昭著/港区史跡散歩
  • 品川歴史館特別展図録/明治維新 その時品川は