江戸時代の塩の道-小名木川

江戸時代の塩の道-小名木川

江戸時代の運河、小名木川

江東区、隅田川と荒川の間をほぼ一直線に横切る川があります。この川を小名木川(おなぎがわ)といいます。この小名木川は家康により作られた人工の運河です。

家康が江戸に入城した直後の1590年からの工事により、小名木川は作られます。政保年間(1640年頃)に作成された「政保国絵図」には「ウナギサヤホリ」としてえがかれています。元禄6年(1693年)に刊行された「江戸図正方鑑」では「ウナキサハホリ」とかかれており、享保元年(1716年)に刊行された「江戸図」で「オナキ川」の記載となっています。運河が作られた当時はウナギサハホリと呼ばれ、後年になり小名木川、という名前に変わっていったようです。小名木川の名前は、天正年間に小名木村を開拓した小名木四郎兵衛からきているといわれています(江東区史 上巻)。

小名木川の役割

小名木川は家康入城時、低地であったこの辺りで干潟前面の水路を確定するため、また小名木川以北の干拓地の排水路としての役割を果たしていたようです(江東区史 上巻)。もう一つ、大きな役割として江戸の町への物資輸送の水路としての役割がありました。

まだ産声をあげたばかりの江戸の町にとって、まず意識すべき点は、物資、人の輸送手段を確保することでした。当時の唯一の大量輸送手段は水運、船による輸送です。そのためまず運河による水運確保を行います。運搬される荷物には様々なものがあったと思いますが、小名木川掘削で特に着目されたのは塩の運搬でした。

「敵に塩を送る」エピソードでも知られているように、塩は人間生活の必需品であり、重要な物資でした。当時行徳では海水を利用した製塩が盛んに行われていました。そのため、江戸に入城した家康はまず、行徳と江戸城を結ぶ運河を作る工事をしました。

江戸城から行徳に船で行くには、まず日比谷入り江から江戸前島に突き当たります。江戸前島が東京湾にせり出しているため、これを迂回しなければなりません。江戸前島を越えても、隅田川から現在の中川、中川から江戸川の3本の河川が流れ込む海岸線を通行する必要があります。こうした河川が多く流れ込む海岸線では、潮流、河流などがぶつかり、波や渦などが発生し、航海は困難です。

上記2点の問題点を解決するために家康はまず、江戸前島の付け根を縦断する運河を掘削しました。これが道三堀です。現在の日本橋川の流路、江戸川橋から隅田川の区間はこの道三掘とほぼ合致します。道三掘により、江戸前島を突っ切り隅田川に抜けることができるようになります。

そして、隅田川から中川の間に設けられたのが小名木川です。現在の小名木川あたりが当時の海岸線なので、海沿いの運河ということになります。海岸沿いに運河が設けられた理由は前でのべたとおり、海岸線を沿っての航海が困難なためです。海沿いですので、掘削というよりも海側にくいを打ち、埋め立てを行ったのが中心のようですので、工事自体はそれほど大規模なものではなかったかも知れません。中川から江戸川までは新川を掘り、道三掘、小名木川、新川経由で行徳に至る、塩の道が完成しました。