墨田区堤通の東白髭アパート敷地内に大きな銅像があります。3メートルほどの子の銅像は幕末から明治初期にかけて活躍した榎本武揚の像です。明治に入り、その晩年を向島の別荘で過ごしたことから、この地に銅像が作られています。
幕末と榎本武揚
榎本武揚は天保7年(1836年)、幕府直参の円兵衛の息子として江戸で誕生します。父の勧めもあり昌平黌に入学、その後、幕府の海軍養成機関である、長崎海軍伝習所で学び、幕府海軍としての道を歩んでいきます。
榎本武揚が18歳の時、日本中を大きく揺るがすペリー艦隊来航が起こりました。幕府は国力強化のため、戦艦の発注、さらに幕臣の海外留学などを実施しました。榎本武揚もそのメンバーの一人として、オランダへ留学をしています。
オランダで学んだ榎本武揚でしたが、その間も幕府の弱体化は進み、ついに王政復古の大号令が下り、戊辰戦争が勃発することとなります。榎本の帰国後、わずか半年での開戦となりました。
その後幕府は敗走を続け、ついに江戸城無血開城をむかえます。その後も徹底抗戦に出た榎本武揚は艦隊を率いて北上。諸外国への外交を重ね、函館を拠点とした蝦夷共和国を樹立、選挙により総裁に選ばれます。
明治、晩年の榎本武揚
諸外国との外交がうまくいかず、蝦夷共和国と新政府軍との戦いは厳しさを増していきます。そして敗戦。蝦夷共和国は樹立からわずか半年で幕を閉じます。
その後3年間の投獄を経て、明治5年に出獄。旧幕臣のみでありながら、留学で得た知見を活かし新政府の要職を歴任し活躍していきました。幕府でもそうであったように、新政府でもその能力を買われ、それに全力で答えていきました。
明治30年、農商務大臣を務めていた榎本武揚は足尾銅山鉱毒事件をめぐる責任を取って辞任。表舞台を降りることになりました。
江戸時代の向島
榎本武揚は、明治38年から73歳で亡くなるまでの3年間を向島の別荘で暮らしています。隅田川沿いを馬で散歩する姿がたびたび見られたようです。
向島は江戸時代から、墨堤は向島百花園を中心に江戸近郊の観光スポットとしてにぎわっていました。江戸から来る観光客を目当てにした料亭や、有力商人などの別荘も並び繫昌していたようです。
「幕末明治女百話」の中には向島の景観がこのように描かれています。
向島の話をして置きましょう。幕府の頃の向島小梅は、粋な隠れ場所でしたが、明治となって、桜の名所―桜といえば、今の飛鳥山のように、花の十日間は、人の群集で盛ったものです。(中略)
向島に住んでいると、寿命が延びるといいいいしたもんです。住んでいる方々も、一癖あると申しちゃア変ですけれど、一風流あると申しましょうか、華族のご隠居さまや、文人墨客といった人々で、邸宅構えが生垣づくり、高野まきの垣根が、向島のお屋敷と奥床しくしていました。
墨田区史
榎本武揚が晩年の住まいを向島にした理由は分かりませんが、江戸の名残を感じさせる、風光明媚な観光地でゆっくりと余生を過ごしたいという思いがあったのではないでしょうか。時代の波にのまれながらも全力を尽くした榎本武揚の名残が向島に残っています。
参考文献
- 三省堂/江戸東京学事典
- 墨田区史 前
- NHK歴史誕生取材班/歴史誕生13
- 湯本豪一著/図説幕末明治流行事典
- 安部公房著/榎本武揚