江戸時代の卸売市場-日本橋魚河岸

江戸時代の卸売市場-日本橋魚河岸

築地中央卸売市場の原点、日本橋魚河岸

日本橋の北詰に、ひっそりと日本橋魚河岸跡の説明板があります。この場所に江戸時代、魚市場があった事を示すものです。日本橋魚河岸の起こりは、摂津(関西)、佃村の漁師たちが江戸に移り住んだことにあります。この家康懇意の佃村の漁師たちは幕府から隅田川にある洲を拝領します。これが現在の佃島です。佃島を漁業基地として白魚漁を営み幕府に献上をしていました。この献上の残りの魚を販売したのが魚河岸の起こりです。

日本橋魚河岸の祖、森孫右衛門

江戸に移り住んだ、摂津佃村の漁師たちは森孫右衛門という漁師の一族でした。孫右衛門と家康、江戸とのつながりは天正10年(1582年)にさかのぼります。家康が京都上洛の際、住吉神社に参拝しますが、神崎川を渡る船がなく、足止めを余儀なくされます。その際に休息所として孫右衛門の屋敷を使ったというエピソードが家康との出会いとして言われています。その際庭の三本松を見た家康に「森」氏を賜った伝えられています。

しかし、別の説では、天正10年に起こった本能寺の変の際、三河に逃げる家康のために船の手配をしたのが孫右衛門としています。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いや、大阪の陣でも漁船による密偵などで武功を建てていたと考えられています。関ヶ原から大阪の陣まで親子2代にわたり長く家康のもとで武功を挙げる一方、家康が上洛する際の「お魚御用」として家康に仕えていたようです。

そうした功がみとめられ、家康の江戸入城の際にも従えて、江戸への往来が始まったようです。そして、慶長6年(1601年)頃から孫右衛門の次男に当たる九左衛門など7名が江戸に移住します。孫右衛門の一族は江戸での白魚漁業の他、佃島の造形にも携わるようになります。

初期の魚市場と発展

江戸に移住した九左衛門が魚店を開いたのが道三堀のあたりと言われています。幕府に献上した魚の残りを店で売っていたと考えられます。その後、周辺の武家地となるのに従って、日本橋あたりの本小田原町へと移転します。

本小田原町に移ってからも需要は増え続け、やがて卸売を行う市場へと発展していきます。こうして日本橋魚河岸が魚市場として発展していきました。

東京の発展と魚市場の移転

江戸が終わり、明治に入っても日本橋魚河岸は魚市場として機能し続けました。

大正11年前後の魚市場は元小田原町、本船町、按針町、長浜長、室町など広範囲に及び(現在の室町1丁目、2丁目あたり)、面積にして約1万坪(3万3千㎡)、1000名ほどが営業を行うまでになっていました。

明治になると周辺は近代化の一途をたどります。明治5年に鉄道が開通すると、新橋、日本橋を通る東海道は東京のメインストリートとして機能します。こうした中で魚市場は衛生面、美観などの観点から問題視されるようになっていきました。

明治から移転を巡って推進派、反対派の間で激しく議論が続いていましたが、大正12年に発生した関東大震災で一瞬で廃墟となってしまします。このことが契機となり、芝浦に設けられた仮設市場を経て同年12月、築地に設けられた仮設市場がスタートします。そして1935年、東京市中央卸売市場として開設され現在に至ります。

そして今、卸売市場はさらに沿岸、豊洲新市場への移転が予定されています。時代の流れとともに、町も少しずつ姿を変え続けていきます。

参考文献

  • 森清杜著/「築地」と「いちば」 築地市場の物語
  • 東京都編/東京百年史 第4巻 大都市への成長(大正期)
  • 岡本信男,木戸憲成著/日本橋魚市場の歴史