江戸の名所芝神明宮-だらだら祭りとめ組の喧嘩

江戸の名所芝神明宮-だらだら祭りとめ組の喧嘩

江戸庶民に愛された芝神明宮(芝大神宮)

港区芝大門に芝大神宮という神社があります。寛弘(かんこう)2年(1005年)に創建されたとされる神社で、1000年以上の歴史を持ちます。江戸時代も幕府の厚い保護を受け、広く江戸庶民に愛されていました。

芝神明増上寺全図
広重東都名所 芝神明増上寺全図

芝大神宮は江戸時代、一般には芝神明宮と呼ばれていました。飯倉神明、という名称が正式で、飯倉の名称は付近の地名にもなっています。飯倉は穀倉のこと。この辺りは源頼朝が伊勢神宮に寄進した土地とされており、御厨(神様へのお供え物(神饌)を調達する場所)であったようです。おそらくそのための穀物を保管する倉があったことから飯倉という名称、地名が生まれたという説があります。神明宮はまさに伊勢信仰を表し、芝神明宮の祭神も伊勢神宮の祭神である天照大御神と豊受大神の2柱です。伊勢神宮と芝神明(飯倉神明)に深い関係性があることは間違いありません。

芝神明宮とだらだら祭り

関東のお伊勢様として愛された芝神明宮ですが、秋の例祭は特に有名でした。9月11日から21日まで続く祭りは「だらだら祭り」として江戸庶民に知られていました。近郊でとれた生姜を売っていたため、「生姜市」とも、旧暦の長雨に当たる時期であったため、「めくされ(芽腐れ)市」ともよばれていました。また、甘酒(雨避けの意味という説)がふるまわれる習慣もあり、飯倉の名称とともに農業信仰を色濃く残したお祭りとして今日に続いています。

芝神明宮祭礼生姜市之景
広重画帖 芝神明宮祭礼生姜市之景

芝神明宮とめ組の喧嘩

江戸庶民に愛された芝神明宮(飯倉神明)。境内には芝居小屋、矢場などが並び普段から盛り場であり、喧嘩もたびたび発生したようです。中でも「め組の喧嘩」は歌舞伎の演目としても有名です。

文化2年(1805年)2月、芝神明宮境内で行われていた勧進相撲に、町火消としてこのあたりを管轄するめ組の辰五郎が仲間を引き連れてやってきました。

木戸銭(観戦料)を払わずに入ろうとすると、木戸番にとめられ、たまたまそこを通りかかった九竜山という力士が木戸番に加勢します。

この場は引き下がった両方でしたが、境内の芝居小屋でたまたま鉢合わせしてしまいます。再び喧嘩に発展し、ついに九竜山が辰五郎を投げ飛ばしてしまいます。

それを発端に大騒動。九竜山の弟子たちが駆け付け、辰五郎のなかまを切りつける事態にまで発展します。形勢が悪くなった辰五郎たちは屋根伝いに逃げます。仲間の一人が火の見やぐらに登り半鐘を鳴らしたため、さらに現場は大混乱に。多くの火消しが現場に駆け付け、大乱闘。同心が駆け付け多数が捕縛されることとなりました。

鳶口
火消が消火活動に利用した鳶口という道具。喧嘩の際に使われたといわれる。
(消防博物館の展示)

事件は通常の町奉行の裁きによるものではなく、勧進相撲を取り仕切る寺社奉行、さらには勘定奉行の3奉行が集まり、三手捌きという異例の事態に発展しました。結果、喧嘩の原因を作った火消側に重い沙汰が下されました。また、喧嘩の最中になった半鐘も島流しにされるという話も残りますが、真偽は定かでありません。

喧嘩の発端と江戸の火消し

喧嘩の発端となったのは、火消しの辰五郎が木戸銭を払わずに勧進相撲を観ようとしたことでした。当時の江戸の消火方法は現在のような放水ではなく、燃えている建物の周辺の建物を壊し、延焼を防ぐ破壊消火という方法でした。おそらくこうした背景から、その技術力を買われて、町火消は鳶が担っていました。

破壊消火の様子
破壊消火の様子。鳶口や大刺又といった道具を使い建物を破壊。延焼を止める
(消防博物館の展示)

また、当時勧進相撲などの興行を行う場合は、その土地の鳶の頭に挨拶に行き、防火面などの面倒を見てもらうというしきたりがありました。その代わりとして、鳶たちは木戸御免で興行を見ることができたのです。め組の喧嘩ではその土地の鳶以外のものが辰五郎の仲間内にいたため、喧嘩に発展したとされています。

江戸の消防系統は非常に複雑で、幕府管轄で主に江戸城付近の決められた場所を担当する定火消、幕府から命じられた大名が中心となり、武家地を中心とした決められた場所を担当する大名火消、そして、おもに町人地の消火を担当する町火消がありました。

め組のまとい
中央がめ組のまとい。
(消防博物館の展示)

複数の系統に分かれていたことや、エリアごとに分かれていることによって、消火活動の優先順位など消火活動をめぐり他の組織と争うことが多々あったようです。 火消が火災現場に出るときは命がけでした。当然仲間内の連帯感は強いものになっていきます。こうしたことが喧嘩を激しくさせ、「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉につながっていきました。

火の見櫓
左が定火消の火の見櫓。右が町火消のもの。建築様式の格式の差や高さの差が定められていた。
(消防博物館の展示)

参考文献

  • 鈴木 淳著/町火消たちの近代
  • 山本純美著/江戸の火事と火消
  • 井上一馬著/東京お祭り!大事典
  • 河合敦監修/江戸の四季と暮らし
  • 森治郎著/大江戸探見
  • お江戸歴史探訪研究会著/大江戸事件帖お散歩マップ
  • 竹内誠編/東京の地名由来辞典
  • 俵元昭著/港区史跡散歩