馬喰町の地名の由来-日本馬と博労

馬喰町の地名の由来-日本馬と博労

馬喰町の地名の由来-日本馬と博労

馬喰町の地名の由来

都営新宿線、馬喰横山駅構内に馬のオブジェとタイル画があります。馬喰町の地名の起こりは江戸時代と馬のかかわりが影響しています。

馬喰町の地名は天正年間(1573年-1593年)、幕府の馬労(博労)頭高木源兵衛、富田半七が居住し、この地にあった馬場を管理していたことに由来します。馬労(博労)は、馬や牛の仲介人のことです。初めは博労町と記されていましたが、正保年間(1645年-1648年)に現在の馬喰町と改められます(日本橋トポグラフィ事典)。

博労という役割

前述の通り、地名の由来となった博労は、馬や牛の仲介人のことです。馬を売買する馬市に各地から集まり、馬を競り落とし、転売をします。福島県白河市、長野県木曾福島町、鳥取県大山町の馬市が日本三大馬市として特に有名でした。

また、博労はそのほかにも民間の獣医としての意味もあったようです。博労、という言葉はそもそも伯楽という中国の言葉からきており、馬の良し悪しを見分ける名人という意味があります(日本民俗大辞典)。そこから馬や牛などといった家畜の治療をする人々のことをハクラク、バクロウと呼んだそうです。

日本の歴史と馬

江戸時代、またそれ以前に扱われた馬はどのようなものだったのでしょうか。天正19年(1591年)、天正遣欧少年使節団が帰国した際に、宣教師バリニャーノから豊臣秀吉にアラビア馬を献上します。その記録がイエズス会史に残されています。

行列は数時間で整い、最初にアラビア馬が進んだが、この馬も進物の一つであった。……アラビア馬は巨大であって、見事な体躯ならびに活発な性質と調教の結果特異な歩行をするのに比べれば、その後に続いた日本の馬は、矮小であまり優雅でなく、皇帝(秀吉)の厩の最良のものであっても駄馬のようであった。(武市銀治郎 富国強馬より引用)

献上されたアラビア馬が5尺(体高152cm)であったのに対して、在来馬のサイズは対州馬、御崎馬、木曽馬、北海道和種など中型のもので、130cm程度です。トカラ馬、奄美・琉球馬など小型のものでは体高100cm程度でした。

江戸時代に入り、3代家光、8代吉宗のころには馬術が奨励され、各藩に命じて良馬の生産向上に努めたため、大型のものも出たようですが、それでも5尺は大変な良馬であったようです。

江戸時代も長くなり、太平の世が続くと、馬にも軍用としての役割ではなく、美術品と同様外観の美が求められます。そのため、江戸後期では将軍への献上馬でも127~140cm程度の馬が多く、小型化したようです。

馬喰町の馬場

馬喰町の町名の由来となった博労頭高木源兵衛は、馬喰町にあった「初音の馬場」を預かっていました。初音の馬場の名前は近くにあった「初音稲荷」にちなんでつけられたとされています。

初音の馬場の歴史は古く関ヶ原の戦いの前に家康が馬揃えをしたと伝えられています。馬揃えは兵馬を一か所に集めて鑑賞する武家の行事です(日本史広辞苑)。

こうした歴史のある馬場ですが、太平の世が続き、馬術も形骸化していくにつれ、馬体同様縮小していきます。火除地(火災延焼を防ぐための広場)としての役割を担い、明治まで続きますが、その後地名のみが残されます。